茨城百景_西山荘と瑞龍山

茨城百景_西山荘と瑞龍山

茨城百景 名称 西山荘と瑞龍山
読み方 せいざんそうとずいりゅうさん
包括風景 久昌寺,義公廟,眉美千石見晴,雪村の遺蹟,佐竹寺と佐竹城址,正宗寺,瑞龍山,国見山
地域 茨城県常陸太田市
碑の現存 現存する
実際の碑への記載 西山荘と瑞龍山
説明
関連リンク
注釈
181124 #常陸太田と奥久慈ロード18
170827 #常陸太田の旅17
170504 #ぐるり茨城17

 

西山荘

西山荘〔茨城県常陸太田市新宿町〕

西山荘〔茨城県常陸太田市新宿町〕

太田城址から西へ2キロの場所にあるのが、西山荘〔茨城県常陸太田市新宿町〕。
水戸二代藩主光圀公が元禄04年(1691)05月から同13年12月にこの世を去るまで、約10年間隠居所にされた山荘です。当時は西山御殿と呼ばれていました。光圀公は水戸から贈られた大日本史の筆削をされるかたわら、敷居を隔てず領民にも接し、様々な事業を進められました。
光圀公の死後、建物はすべて取り払われました。文政02年(1819)、8代斉脩(なりのぶ)により、規模を縮小して再建されました。

 

久昌寺

久昌寺〔茨城県常陸太田市新宿町〕

久昌寺〔茨城県常陸太田市新宿町〕

久昌寺〔茨城県常陸太田市新宿町〕は日蓮宗の本山です。

元々は、水戸八景「山寺の晩鐘」碑のある、西山研修所〔茨城県常陸太田市稲木町〕の敷地内にお寺がありました。この地に、天和03年(1683)に水戸二代藩主徳川光圀が、旧久昌寺の三昧堂(さんまいどう)檀林(だんりん)を開かれ、天保14年(1843)に廃されるまで160年間にわたって全国から学僧が集まりました。

明治維新の廃藩置県により、明治03年(1870)末寺のひとつ蓮華寺と合併して、現在の場所に移転しました。

 

義公廟

義公廟〔茨城県常陸太田市新宿町〕

義公廟〔茨城県常陸太田市新宿町〕

義公廟〔茨城県常陸太田市新宿町〕は昭和16年(1941)、光圀公の遺徳を忍んで建立されました。廟の中には、光圀公が生母の菩薩を弔うために、法華経1部10巻83900字あまりを書き写したヒノキ板30枚を納める宝塔が安置されています。また、光圀公が集めた明板大蔵経も納められています。

 

眉美千石見晴

眉美千石見晴:板谷坂〔茨城県常陸太田市東二〕

眉美千石見晴:板谷坂〔茨城県常陸太田市東二〕

=板谷坂(ばんやざか)のこと。
常陸太田市街地、鯨ヶ岡の板谷坂(ばんやざか)〔茨城県常陸太田市東二〕から眺める、阿武隈山系のやまなみが「眉(まゆ)」のように美しいことから、「眉美千石」と言われていました。「板谷(ばんや)」とは、佐竹氏がこの地を治めていた時代に、この地に「番屋」があったことに由来しています。

 

雪村の遺蹟

雪村の碑〔茨城県常陸太田市稲木町〕

雪村の碑〔茨城県常陸太田市稲木町〕

『雪村の碑』の「雪村(せっそん)」の文字は、日本画家横山大観の筆によるもので、昭和19年(1944)、ゆかりの地、三昧堂檀林妙見堂跡に建てられました。
雪村は16世紀の初め(1504)に、佐竹氏の一族として、那珂郡大宮町村田に生まれ、市内の耕山寺や正宗寺などで修行しました。修行中も寺宝の絵画について研究し、会津、小田原、鎌倉などを遍歴して中国画を学びました。その作品は花鳥、山水、人物画などにわたり、力強い躍動感に溢れ、人々の心を引きつけました。
雪村は若いころから雪舟(新しい山水画を生み出した天才画家)の筆法を学びました。
耕山寺付近に住んでいたとき、竹の骨をイグサで編み、風雅な絵を地紙に描いて貼り付け、うちわを作りました。これは太田名産の「雪村うちわ」と称され、現在販売されています。

 

佐竹寺と佐竹城址

佐竹寺

佐竹寺 本堂〔茨城県常陸太田市天神林町〕

佐竹寺 本堂〔茨城県常陸太田市天神林町〕

佐竹寺〔茨城県常陸太田市天神林町〕は妙福山明音院と号する、真言宗豊山派の寺で、寛和元年(985)に花山天皇の勅願により、元密上人が開山したと伝えられています。創建当時は、鶴ヶ池の洞崎の峰に建てられ、観音寺と称していました。
文永06年(1269)6代佐竹長義のとき、寺領が寄進され。寺号も佐竹寺と改め、佐竹氏の祈願寺になりました。天文12年(1543)に兵火により焼失しましたが、18代義昭のとき現在地に再建されました。

本堂は茅葺屋根の寄棟造りで、正面には唐破風をあげています。江戸時代に光圀によって改築されましたが、正面の火頭窓(かとうまど)や柱、組物などに桃山建築の様式が残されています。

 

佐竹城=太田城

太田城〔茨城県常陸太田市中城町

太田城〔茨城県常陸太田市中城町

佐竹城とは、太田城〔茨城県常陸太田市中城町〕のこと。舞鶴城、青龍城とも呼ばれます。
水郡線常陸オタ駅から県道33号を北へ2キロ。現在の中城町一帯が太田城跡です。太田の地は、北の陸奥へ向かうための重要な経由地でもあり、里川の水資源により、水田地帯が開けた場所でもあります。

源義家の弟、義光の流れをくむ佐竹氏がこの地に移り住み、約450年間この地を支配しました。当初は、太田城から南東2キロの地に馬坂城を築き久慈川の山田川流域を支配していましたが、昌義の子隆義の時代に太田城に移ったとされています。

治承04年(1180)金砂合戦の敗北により、大きく後退。

鯨ヶ岡(くじらがおか)と呼ばれる舌状台地に、本格的な中世城郭として整備され始めたのは、南北朝時代に佐竹貞義が常陸守護となって以降のことです。その後、改修、改築されました。

佐竹氏20代義宣の時代には、秀吉から54万石を安堵され、全国7位の大大名になりました。水戸城も攻略し、常陸国一円を支配することとなりました。関ヶ原の戦いの際、徳川家康の出陣要請に従わず、慶長07(1602)、秋田に鞍替えとなりました。その後、常陸太田は水戸藩領となり、太田状は廃城となりました。

正宗寺

正宗寺(臨済宗)〔茨城県常陸太田市増井町〕は太田城の北1.5キロの場所にあります。
かつてこの一帯には、佐竹氏と関係の深い勝楽寺、正法寺があり、中世常陸国における文化・芸術の中心的役割を果たしていました。勝楽寺は平将門の父良将の創建と伝えられています。

瑞龍山

瑞龍山〔茨城県常陸太田市瑞龍町〕

瑞龍山〔茨城県常陸太田市瑞龍町〕

瑞龍山〔茨城県常陸太田市瑞龍町〕は水郡線常陸太田駅から北へ5キロ、国見山の南側の麓、の丘陵地一帯を示します。約6ヘクタールにおよぶ広大な墓域には初代藩主頼房をはじめとする、水戸徳川家の累代の藩主のほか、約80基の墓が在します。
光圀が生前に建てた「梅里先生の碑」が墓所前の六角堂に納められていたり、水戸学に重要な影響を与えた朱舜水(しゅしゅんすい)の墓もあります。

 

国見山

水郡線常陸太田駅から北5キロの場所にある山。
山の南側は、水戸徳川家の墓所となっており、瑞龍山とも呼ばれています。

 

 

 

 

 

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