自転車旅/常陸太田と奥久慈ロード18(2日目)~常陸太田から安寺持方、棚倉_181124
2018年(平成30年)11月23日(金/祝日)から3連休。
この三連休ではロードバイクを用い、水戸市から常陸太田市方面へ入り、北上して棚倉方面へ向かいます。棚倉からは八溝山の北側ルートからクライムして、JR下野宮駅(水郡線)をゴールとします。
道中の茨城百景碑を探すことや、天狗党の田中愿蔵関連の地を巡ることも目標です。
銚子屋旅館
目が覚めればここは、常陸太田市の銚子屋旅館さん。
昨日はタイミングを逃してお風呂に入れなかったので、朝風呂に入ります。浴室は朝06時30分から利用開始可能。そそくさと入浴の準備をして、1階の浴室へ。まだ誰も利用して居らず、一番風呂です♪
07時半から朝食。
こちらの調子屋旅館さんでは、朝食は各部屋でいただくスタイル。配膳係のお姉さんが朝食を各部屋まで持ってきてくださいます。いただきま~す♪
旅館の最終チェックアウト時間は、午前10時。自転車旅は日が明ける前からスタートするスタイルが一般的なのでしょうけれど、ワタクシは部屋でグズグズするスタイルが好きなのです。
そうは言っても今日は常陸太田市街地から北上して福島県入りするし、あちらこちら寄り道しながらの自転車旅だから、09時スタートをめどにチェックアウト。旅館前で自転車のセッティングをします。
若宮八幡宮。旅館から1分。常陸太田駅から北へ約1.3キロ。
佐竹13代義仁が鎌倉鶴岡八幡宮より勧請して舞鶴城中に祀り、守護神としました。
慶長14年(1609)、徳川頼房7歳の時、病気平癒を祈願して全快したと言われています。
太田城 / 舞鶴城
常陸太田市立太田小学校の敷地。ここはもともと太田城(舞鶴城、佐竹城、とも言う)の城跡です。平安時代末期に太田大夫道延(藤原秀郷の子孫)が初めに築いた建物に始まります。陸奥に通じる重要な地点。
ここに移り住んだのが源義家の弟、義光の流れを汲む源氏屈指の名門佐竹氏であり、約450年間この地を支配しました。佐竹氏ははじめ、この太田城より南西の馬坂城(茨城県常陸太田市天神林町)を築いて久慈川の支流山田川流域を支配していましたが、昌義の子隆義の時代に太田城に移ったとされています。
佐竹氏20代義宣のころには、豊臣秀吉から54万石を安堵され、全国7位の大大名となりました。水戸城も攻略し、常陸國一円を支配することになりました。11年間水戸城に中心を移しましたが、関ヶ原の戦いのとき、徳川家康の出陣要請にしたがわず、慶長07年(1602)、秋田に国替えになりました。その後、常陸太田は水戸藩領となり、太田城は廃城となりました。
常陸太田市市街地 強者どもが夢の跡
市街地の中心部に広い空き地。
ここにはたばこ工場があったと記憶しています。その昔、常陸太田市の特産物はたばこでした。たばこが専売になるまでは、たばこは常陸太田の財政を潤したと聞いています。
京成百貨店太田店の空き店舗。
京成百貨店は、ここ常陸太田の地が創業と聞きます。京成百貨店はもともと、呉服屋。店舗は水戸、土浦、上野と拡大していきましたが、現在残るのは水戸京成百貨店のみとなります。
鯨ヶ岡市街地をぐるぐる。
かつて、この常陸太田市(鯨が丘と呼ばれる地域)は、水戸と奥州をつなぐ中継地点であり、物流の中継地点でもありました。物流の中継地点としての役割を担っていたころは、たいへん活気があったようです。現在は、その名残を町の風景で垣間見ることができます。
板谷坂
板谷坂(ばんやさか)。
常陸太田の市街地は、茨城県北部の産物であるたばこ、こんにゃく、綿花、紙、紅花、茶などが集まる場所として繁栄し、水戸をはじめ江戸その他の地域に輸送しました。また平山城(丘城)の城下町としても発達したため、いくつかの急な坂や古い石垣などがたいへん多い町です。
板谷坂から見た阿武隈山地の風景が「まゆずみ」に似ており、「眉美千石」と呼ばれました。
鯨が丘ふれあい広場
この鯨が丘ふれあい広場は、佐竹氏が秋田へ国替えになった後、高札場(触書や禁令を掲示する場)となりました。
明治時代、明治06年には二階建ての太田警察署が建てられました。
昭和38年に太田警察署が移転し、昭和40年には三階建ての消防署が建てられました。
平成16年に消防署が移転した後の平成20年、鯨ヶ岡ふれあい広場が整備されました。
下井水神宮
水郡線常陸太田駅方面から鯨ヶ岡ふれあい広場に向かい、左折します。昨日訪問が不完全だった、馬坂城址、佐竹寺を訪問するのです。
県道61号におりる坂になっていて進むと、お堂のような建物。
下井水神宮。
鯨ヶ岡には古来、7つの井戸があり、この「下井」はそのひとつ。
佐竹寺
県道61号の坂を800mほど上っていくと、まずは佐竹寺。佐竹寺前までは何度か来ていますが、境内に踏み入れるのは初めて。
真言宗豊山派の寺院。寛和元年(985)に花山天皇の勅願により元密上人が開山しました。創建当時はこの現在地から西北西に約700m離れた鶴ヶ池の洞崎の峰に建てられ、観音寺と称していました。
佐竹氏初代昌義は、治承元年(1177)に300貫の土地を寄進。6代長義は本堂を佐竹氏の祈願所として再興。天文12年(1543)に兵火にかかり焼失してしまった後、同15年に18代義昭によってこの地に再建されました。
明治39年に(今で言う)国重要文化財に指定された本堂は、茅葺屋根寄棟造で、正面には唐破風をあげています。
馬坂城址
馬坂城址〔茨城県常陸太田市天神林町〕も再訪。
昨晩は暗くなってしまい、まわりをよく見渡せませんでした。。奥に進むと、馬坂城址の碑が設置されていたのです。
馬坂城は台地の先端部の約6000㎡の敷地を三つの空堀で分断してもうけた平山城です。北を鶴ヶ池、西南を山田川に囲まれた自然の要害でした。
水戸天狗党 梶山敬介くん留魂之碑
水戸八景「山寺の晩鐘」がある場所まで行きます。途中、「水戸天狗党 梶山敬介くん留魂之碑」。
山ノ寺〔茨城県常陸太田市稲木町〕。境内に上がると、繋がれていない放し飼いの犬に吠えられ退散。
茨城百景 包含風景 雪村の遺蹟 / 雪村の碑
西山研修所の案内標識があります。案内標識どおり上っていくと、「雪村の碑」(せっそんのひ)。「雪村」の文字は横山大観が書いたもの。
雪村は16世紀の初め(1504)に、佐竹氏の一族として那珂郡大宮町村田に生まれました。市内の耕山寺や正宗寺などで修行し、寺宝の絵画について研究し、会津、小田原、鎌倉など遍歴して中国画を学びました。岡倉天心は「雪舟が先んじて出なかったならば、雪舟の仕事をしたであろう」と絶賛しています。
耕山寺時代、地紙に風雅な絵を描き、竹を割ってうちわを作りました。これが太田名産の「雪村うちわ」です。
坂を上っていくと、常陸太田市西山研修所。
久しぶりに発見した「子どもいきいき自然体験 フィールド100選」の案内板。
水戸八景 山寺の晩鐘
この地には、旧久昌寺の三昧堂檀林(僧侶の学校)があったところで、天和03年(1683)に水戸二代藩主光圀公が檀林を開かれてから天保14年(1843)に廃されるまで160年間にわたり学僧が修行に励みました。
当時、周囲の寺寺が打ち出す鐘の音を聞き、「山寺の晩鐘幽がくに響き」と詠み、「山寺の晩鐘」と命名しました。斉昭公は、水戸藩士たちを水戸八景景勝地約80キロを一日に一巡させ、自然への親しみと心身の鍛練をさせることを計りました。
茨城百景 包含風景 久昌寺
久昌寺(きゅうしょうじ)〔茨城県常陸太田市新宿町〕。
水戸藩二代藩主光圀の生母谷久子が寛文元年(1661)に亡くなり、水戸城下の日蓮宗径王寺に埋葬されました。17回忌にあたり、母久子の墓所を瑞龍山に移すに際し、径王寺を稲木村に移し、新たに久昌寺を(先ほどの「山寺の晩鐘」があった場所に)建立しました。
その後、明治維新の廃藩置県により末寺の蓮華寺と合併し、この地に移転しました。
このところ、ビンディングシューズの調子が悪い。
金具がゆるんでいた。このシューズも購入してから3年くらい経つし、そろそろ寿命なのかな~。
田中愿蔵 生誕の地 碑
東連地町(とうれんじちょう)方面に進みます。この地域のどこかに田中愿蔵先生の生誕の地の碑があるのです。
そろそろお昼の時間。(まだ、常陸太田市を出られていない!)まずは腹ごしらえ、と言うことで、セイコーマートでお昼を買って食べます。
東連地町へは山田川を超えないとならないのですが、コンビニ近くの橋は工事中。工事の担当者さん曰く、自転車も通ることはできない、とのこと。この先に”たまきや”さんがあって、そこに橋が架かっているから、そこから入ってください。とのこと。
当初、「田中愿蔵生誕の地」の碑の場所は知りませんでした。この工事現場に工事周辺マップが貼られており、その地図の中に「田中愿蔵生誕の地」の文字が!!!
東金砂神社 入口鳥居と商店街
県道33号を7キロほど北上すると、右手に東金砂神社の鳥居が現れます。鳥居をくぐると山田川。紅葉の風景。
鳥居前の道路には、商店街が形成されています。県道33号の交通量がまあまああるので、車には注意が必要です。。閉まった店舗前には、がちゃがちゃ。パナソニック 雨といの照明。
茨城百景 竜神峡と安寺持方
竜神大吊り橋の入口は、車の渋滞。紅葉の季節、竜神峡は混雑します。
旅館 昇竜荘。
10数年前から気になっている旅館。楽天トラベルのような、ネット宿泊予約サイトでは出てこない宿。宿泊することはできるのだろうか。
茨城百景の碑。龍神峡と安寺持方 (竜神峡と安寺持方)。道路が拡張工事中。
竜神峡大吊橋 鯉のぼりと亀ヶ淵 050425
茨城百景 包含風景 武生神社
武生神社入口の碑。 13:48
勾配が一気に上がります。
登り切ったところ。 14:10 新しい道路ができるようです。
武生林道の看板。昭和41年に着手し、59年度に完成した林道。
14:24
武生神社の鳥居。
まだ体力に余裕があるし、時間もまあまあ余裕があります。武生神社は茨城百景 「竜神峡と安寺持方」の包含風景でもありますので、入ってみることにします。
武生神社 拝殿
神武天皇の頃、大戸道命(おおとのじのみこと)が降臨され、大宝元年(701)役小角(えんのおづぬ)が心霊をこの地に遷したと伝えられています。大同元年(806)坂上田村麻呂が蝦夷征伐の祭、武運長久を祈願して本殿を修築したと伝えれています。
元は修験道の道場でしたが、鎌倉時代に東金砂山東清寺の末寺となりました。しかし、江戸時代に禿河光圀の命により、元の修験職へと戻り、武生山飯綱大権現と称されました。その後、明治初年の神仏分離の実施により、武生山岩谷寺大王院が廃寺となりました。
武生神社 太郎杉 (常陸太田市天然記念物)
樹齢およそ800年、高さ約35m、周囲約5m。
横江だが無く、反対側に大きく突き出した枝張りは、たいへん珍しいものです。
奥久慈見晴らし台
15時になるけど、だいぶ夕日。日が暮れるのが早い。こんな山の中を、パトカーが通過。三連休だし、パトカーは市民の安全を守るため、不審者がいないかを見守るため巡回しているのでしょう。
籐兵衛山
籐兵衛山(とうべいやま)の元となる藤兵衛は、持方の地を開いた元祖の人と伝えられており、男体神社奥の院にて修行した修験者で、剣術の達人でもあったと言われています。籐兵衛はこの世を去るときに「集落の一目に見えるところに葬るように」とたのみ、集落の者たちは集落が一望できるこの山に籐兵衛を葬り、この山を籐兵衛山と呼びました。
茨城百景 竜神峡と安寺持方
茨城百景 「竜神峡と安寺持方」の、安寺(あでら)地区。
福島県入りする
15:42 県道461号に合流。16:15 県道195号、うつくしまふくしまに入ります。
16:47 本日の宿泊地、ユーパル矢祭の看板を発見。
今宵の宿では、夕朝食付きで予約をしてあります。夕食の時間は早くても18時から。このままチェックインしてしまうと、おなかが空きまくりです。東館駅近くにコンビニがあるようなので、軽く補給をすることにします。
コンビニで、シュークリームとピルクル。
2日目の宿泊 ユーパル矢祭
17:30 本日宿泊するホテル ユーパル矢祭 に到着。チェックイン。自転車は屋外のスペースに置くよう、促されます。まあ、盗まれることはないだろうから、言われるままに施錠。
部屋に入り、支度をします。ルームチェック。
昨日は洗濯ができなかったので、今日こそは、と思ってフロントで洗濯機(ランドリー)の場所を質問したら、このホテルにも「ランドリーはない」とのこと。ショック。
洗濯物を一度部屋に置いてきて、大浴場で汗を流すことにします。
お風呂から出て、そのまま夕食会場となる、1階のレストランに行きます。コース仕立てになっており、これが、なかなか美味♪
ここのお風呂も、夜は22時までの入浴とのことなので、本日最後にもう一度だけ入浴しておくことにします。
洗濯物は、最低限洗うものを選択し、洗濯しました。
本日のルート