085 観音と小田城址

茨城百景 観音と小田城址

茨城百景_北条泉の観音と小田城址

茨城百景_北条泉の観音と小田城址

 

茨城百景 名称 観音と小田城址
読み方 かんのんとおだじょうし
包含風景 城山遊園地,東大池,蚕影山神社,一の矢の天王
地域 茨城県つくば市
碑の現存 現存する
実際の碑への記載 北条泉の観音と小田城址
説明
関連リンク
注釈

 

茨城百景 観音 / 子育て観音 慶龍寺

観音とは、北条泉の子育て観音、慶龍寺(けいりゅうじ/茨城県つくば市)のこと。

茨城百景_蟲切霊場_泉子育観音の看板<br>蟲切(蟲封じ)で子ども、赤ちゃんの成長を祈り、無病息災、身体健全をお祈りします。

茨城百景_蟲切霊場_泉子育観音の看板
蟲切(蟲封じ)で子ども、赤ちゃんの成長を祈り、無病息災、身体健全をお祈りします。

 

筑波山の女体山側にある不動峠。自転車乗りに有名となったその不動峠の入口には、北条大池があります。その北条大池から西に1.5kmの泉地区に、泉子育観音と呼ばれる、真言宗の慶龍寺があります。

慶龍寺の本尊「 子育出世正観世音菩薩」は、大同02年(807)、京都・東寺で弘法大師が子どもの成長安全を祈願し自ら彫ったものとされています。文明04年(1472)に仁和寺の随弟法師が小田原に観音寺を建て本尊仏としてまつりました。

慶龍寺_本堂<br>元和04年(1618年)慶龍上人が創立した慶龍寺の本堂。

慶龍寺_本堂
元和04年(1618年)慶龍上人が創立した慶龍寺の本堂。

 

元和元年(1615)、観音寺住職の慶龍上人の夢枕にお告げされ、本尊を持って旅をしました。桜川が氾濫し、渡ることができないところにひとりの童子が小舟に乗ってやってきて、慶龍上人を向こう岸へ渡してくれました。すると、その童子は煙のように消えてしまいました。

上人は「本尊が川を渡らせてくれた」と感謝しました。
その頃村では子どもの悪い病気が流行っていたのが、この本尊により治まり、その御利益を聞いた人々が集まるようになりました。
元和4年(1618)、堂宇を建てて、慶龍上人の名にちなんで「慶龍寺」となりました。

土浦藩の土屋政直は貞享04年(1687)、表門を寄進。

 

慶龍寺_表御門(表門)<br>土浦藩の土屋政直が寄進しました。

慶龍寺_表御門(表門)
土浦藩の土屋政直が寄進しました。

 

泉子育観音 慶龍寺 (公式サイト)

 

 

茨城百景 小田城跡

筑波鉄道(昭和62年廃線)常陸小田駅近くに小田城跡はあります。
鎌倉時代から戦国時代に、常陸国南部に勢力を持った小田氏の居城跡。

 

整備事業も一段落した、小田城跡歴史ひろば<br>保存整備事業にて2016年、中世の小田城を復元した「小田城跡歴史ひろば」として公開されています。

整備事業も一段落した、小田城跡歴史ひろば
保存整備事業にて2016年、中世の小田城を復元した「小田城跡歴史ひろば」として公開されています。

 

国指定史跡 小田城跡  (昭和10年06月07日指定)

小田城は、12世紀末に矢田知家によって築かれた。知家は常陸国の守護となり、建久04年(1193)には多気義幹を亡ぼし、常陸国南部に勢力を広めた。4代時知に至り小田氏を名乗るようになる。鎌倉幕府が滅びると、7代の治久は新政府に参加し、南朝に味方した。治久は延元03年(1338)に北畠親房を小田城に迎え、関東における南朝の中心となって活躍した。親房は城中で「神皇正統記」「職原抄」を執筆した。しかし高師冬に包囲され、翌年に治久は師冬に降り、親房は関城へ移った。

戦国時代になると、小田氏は佐竹氏、結城氏に攻められ、小田城の激しい争奪戦が続いた。小田氏治は永禄12年(1560)の手這坂の合戦に敗れて土浦へ逃げた。佐竹氏は梶原政景を小田城代として守らせた。政景によって小田城は大規模に改修された。慶長07年(1602)に佐竹氏は秋田へ国替えされて廃城になった。

小田城は、本丸を中心に三重の堀と土塁に囲まれた平城で、約21ヘクタールに及ぶ。本丸部分の約2ヘクタール程を八田氏の居館として出発し、次第に拡大強化された。南北朝に入ってから、居館から防御のための城郭へと転化した。戦国期の度重なる戦乱の中で戦闘用に強化された。更に梶原政景によって最終的に改修され、現在知り得る姿になって完成する。
この城は平城として長所を十分発揮して巧妙に設計されている。本丸と各郭(かくくるわ)は深い堀と高い土塁で囲まれ、重要な出入口には馬出しを設けて、直接侵入ができないようにしてある。郭は堀によって隔てられ、橋で結ばれている。郭は外部になるにつれて広くなるが、その中に堀や土塁を設けて、郭内の自由な移動を妨げている。郭群の外を北から東に囲む最外部は城下町をなし、その外も堀と土塁で囲まれている。

小田氏略系譜
1 知家 ー 2 知重 ー 3 泰知 ー 4 時知 ー 5 宗知 ー 6 貞宗 ー 7 治久 ー 8 孝朝 ー 9 治朝 ー 10 持家 ー 11 朝久 ー 12 成治 ー 13 治孝 ー 14 政治 ー 15 氏治

〔つくば市教育委員会〕

 

2006年頃の小田城址<br>この頃はまだ、発掘調査などが行われていていました。

2006年頃の小田城址
この頃はまだ、発掘調査などが行われていていました。

 

 

茨城百景 包含風景 城山遊園地

茨城百景 包含風景 城山遊園地(推測)

茨城百景 包含風景 城山遊園地(推測)

 

コメント欄にて、「多気山城(たきやま/たけやま・じょう)」が「城山(じょうやま)」と呼ばれていた。とご報告をいただいたので、その線で少し調査をしてみました。

参考:『改訂版 図説 茨城の城郭』茨城城郭研究会 国書刊行会 (P198-199)

平安中期に常陸大掾平維幹(多気太郎)が水守営所から移って築いたという説がある。また、子孫多気義幹が建久04年(1193)に「多気山城に籠城」と『吾妻鏡』に記されている。

などと言った、説があるようです。

茨城百景の包含風景において、「遊園地」の表現が現代の「公園」の意味を成すことがあります。もしかしたら、この多気山城自体に公園が存在したか、山そのものを公園(遊休地)としてとらえたかによって、「包含風景 城山遊園地」と現した可能性が考えられます。

 

 

 

茨城百景 包含風景 東大池 (北条大池?)

この茨城百景 観音と小田城址の包含風景として『東大池』があります。
子育観音 慶龍寺や小田城跡を起点として“東”の”大池”を探すと、『北条大池』のことかと推察されます。

前述の通り、筑波山には自転車乗りが好む、ヒルクライムの峠がたくさんあります。北条大池、平沢官衙遺跡を基点としたヒルクライムは不動峠と呼ばれ、たくさんのロードバイク乗りがこの峠を征しようと訪れます。

北条大池_桜の咲く頃(2017年04月)<br>近くには平沢官衙遺跡があります。筑波山クライムヒル不動峠の入口でもあります。

北条大池_桜の咲く頃(2017年04月)
近くには平沢官衙遺跡があります。筑波山クライムヒル不動峠の入口でもあります。

また、北条大池は桜の名所としても有名です。春先には北条大池のまわりを、たくさんの桜が咲き乱れます。

 

茨城百景 包含風景 蚕影山神社 / 蚕影神社

旧筑波郡市街地である北条地区(バス停 北条仲町)から北東へ約3キロの場所に蚕影山神社(こかげさんじんじゃ)。神社へ続く道には、介護老人保健施設「豊浦」があります。介護施設「豊浦」を過ぎてすぐに、蚕影山神社の入口。蚕影“山”と言うくらいですから、この神社はちょっとした“山”でした。
入口の案内板を見ると、蚕影山神社の紹介の他、「金色姫」について記載があります。
天竺(旧インド)で旧仲国霖夷大王の后光契婦人が亡くなり、一人娘の金色姫は嘆き苦しんでいた。ある国から新しい后が迎え入れられた。その継母は姫を忌み嫌い、様々な四度の嫌がらせ(獅子、鷹、舟、庭)を行なったが、姫は仏の加護で助かった。不憫に思った大王は、桑の木の舟に姫を入れ、仏法流布の国へたどり着くよう舟を流すと、我が国の東、常陸國豊浦湊へ漂着。そこの権太夫夫妻に助けたられ、掌中の玉と愛された。しかし姫は病に陥り亡くなった。姫の亡骸を棺に入れ弔うと、ある夜、夫妻の夢に「我に食を与えよ、必ず恩返しをする」と告げた。棺を開けると小虫が湧いており、桑の実を与えると成長し繭となった。筑波山の影道仙人が夫婦に糸を紡ぐ法を教えた。これが日本の養蚕の始まりである。。
祭神は稚産霊神(わかむすびのかみ)、埴山姫命(はにやまひめのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめ)。
古くから養蚕の神として養蚕農家の信仰を集め、参拝者で賑わった時期もありました。

葉集には「筑波嶺の 新桑繭の 衣はあれど 君が御衣し あやに着欲しも」と詠われています。

蚕影山神社 茨城百景 包含風景 #theta360 – Spherical Image – RICOH THETA

金色姫伝説の「豊浦」は、日立市の「川尻海岸」と言われています。
茨城百景 018 川尻海岸

 

茨城百景 包含風景 一の矢の天王

つくばセンターから学園東大通りを北へ約4キロ。
筑波大学の敷地が終わる場所の右手に、一ノ矢八坂神社 〔茨城県つくば市玉取〕があります。

一ノ矢神社 拝殿

一ノ矢神社 拝殿

一ノ矢八坂神社では毎年旧暦の06月、「一ノ矢のにんにく祭」と称される祭礼が行なわれます。これは天明の大飢饉〔1782-88〕の際、疫病が流行したのに対し、領主堀田氏が領民ににんにくの常食を推奨したことに始まると伝えられています。

「一ノ矢」には諸説があります。
悪戯をするカラスを退治しようと弓の名人が集められ、一つ目の矢でカラスを落とした場所を「一ノ矢」と名付けた説があります。

江戸時代の一ノ矢八坂神社は一般に「天王社」と呼ばれていました。

 

 

 

 

2 件のコメント

  • はじめまして。
    土浦在住の者です、最近に百景の存在を知り、訪ねて廻っております。
    城山遊園地の件、気になっておりまして、こちらの記事にたどり着きました。北条の町に多気山あり、ここが地元で城山(じょうやま)と呼ばれているそうです。
    現在、山全体が竜ケ崎の宗教法人の所有で立ち入りできないそうです。かつてはここにお城があつたそうで、資料が無い為に詳しいことはわからないとの事です。
    しかし、遊園地の呼称が判然としない。百景選定の過程で、ある程度の範囲を呼ぶのと公園的な場所をそう呼ぶことにしたのでしょうか?
    昭和54年発刊の「茨城百景巡礼」室伏勇 著を図書館で借りまして、調べてみたのですが、記載がありません。
    この事業は県といはらき新聞社とあり、人気投票で決したとあります。
    その選考過程は市長村からの推薦による。候補地の名称には、保和苑観光遊覧地、阿字ヶ浦観光公園、山の壮公園、高浜観光地等。候補地のくくりが記されております。
    人の集まるところを総称してるのか。

    まったくの当て推量です。
    何かの参考になればと思います。
    これは私の類推するところで、間違えかもしれません。
    昭和25年の選考ですから、推薦者もすでにお亡くなりでしょうね。

    • コメント(ご報告)をいただきまして、ありがとうございます。
      「多気山城(たきさん)」が「城山(じょうやま)」と呼ばれていた事実を確認することができました関係で、茨城百景包含風景の記載を加筆させていただきました。
      私の記した内容が正解である、と言い切るつもりはありません。こういう調べ物は、仮設、検証の繰り返しだと思いますので、その角度で見ていただけると幸いです。
      よろしくお願いします。