茨城百景 水海道近郊名所巡り
茨城百景 名称 | 水海道近郊名所巡り |
読み方 | みつかいどうきんこうめいしょめぐり |
包含風景 | 豊水橋,八間堀の桜,弘経寺,報恩寺,累の墓,元三大師,大塚戸の一言主明神,大生郷の天満宮,大生郷の釣場,猟場,長塚節の遺蹟 |
地域 | 茨城県常総市 |
碑の現存 | 現存する |
実際の碑への記載 | 水海道近郊名所巡り
豊水橋、八間堀の櫻、弘経寺、報恩寺、累の墓、大塚戸の一言主明神、大生郷の釣場、猟場 |
説明 | |
関連リンク | |
注釈 | |
060416,150919,161103,190120 |
茨城百景 包含風景 豊水橋
茨城県常総市豊岡町と茨城県常総市水海道の間を流れる、鬼怒川に架かる橋。国道354号線。豊水橋(ほうすいきょう)の「豊」とは「豊岡町」の豊。「水」は「水海道」から来ています。
眼下に流れる鬼怒川河川敷には、野球場や公園などがあり、市民の憩いの場となっています。
茨城百景 包含風景 八間堀の櫻
豊水橋の水海道寄りの北100メートルの場所に、八間堀水門があります。この水門まで流れてきた八間堀川の川沿いに咲く桜のことを示しています。
茨城百景 包含風景 弘経寺
弘経寺(ぐぎょうじ)は応永21年(1414)嘆誉(たんより)上人により開基された浄土宗の寺。
存把(ぞんぱ)上人のとき、天正の兵火(北条氏と下妻多賀谷氏との戦火)により堂宇は焼失。存把上人は寺宝を携えて結城に去り、了学上人が再興するまで無住時代が続きました。
第10世了学上人は徳川家康、秀忠、家光の三代にわたって厚遇され、家康の孫娘である千姫(せんひめ)は上人へ深く帰依し、弘経寺を菩薩寺と定めたことにより、寺院発展に大きく貢献しました。千姫の墓は、本堂左手奥にあり、寺には「千姫姿絵」や愛用品の紫竜石硯などが伝わります。(190120,060416)
茨城百景 包含風景 報恩寺
報恩寺(ほうおんじ)は建保02年(1214)、親鸞聖人の第一弟子性信(しょうしん)が当時荒廃していた真言宗の大楽寺を再興し、報恩寺と名付けたのにはじまる真言宗の寺院です。
慶長05年(1600)、兵火により焼失。江戸に移転後の文化03年(1806)焼失。同07年、再び現在の場所に移されました。
本尊は阿弥陀如来で、寺宝として空海の作と伝わる釈迦坐像があります。真宗大谷派。 (190120)
茨城百景 包含風景 累の墓
関東鉄道常総線 中妻駅から鬼怒川を挟み、西へ1キロに法蔵寺〔茨城県常総市羽生町〕があります。法蔵寺は文禄年間(1592-1595)開基の浄土宗の寺です。戦国時代に羽生一族の城郭がありましたが、羽生氏滅亡後、その地に堂宇が営まれたと伝えられています。
この寺には芝居や浄瑠璃、講談などで有名な累の墓(かさねのはか)があります。
その後、与右衛門と杉の間には女の子が生まれ、名前を「累(るい)」と名付けますが、その姿、顔かたちが先の「助」にそっくり。世間の人々は、「累(るい)」を「累(かさね)」と呼ぶようになりました。
累は成長し、巡礼者だった谷五郎を婿に迎えます。谷五郎は与右衛門と改名します。財産目当てだった二代目与右衛門は、累を河原に呼び出し、突き落として殺してしまいました。偶然にも杉が累を殺めたところでした。
与右衛門は世間の目をごまかして妻をめとるも、次々に死去。7人目の妻がかわいい女の子(名を菊という)を産みますが、菊は年頃になると突然発狂し「殺された累の生まれ変わりじゃ、恨みを晴らしてやる」と与右衛門をののしりました。
与右衛門は弘経寺に逃げ込み、祐天上人に救いを求めました。菊は正気に戻ったものの、与右衛門は改心、出家し、助や累の供養をしながら往生を遂げたました。(P120)(190120)
茨城百景 包含風景 元三大師 (安楽寺)
元三大師(がんさんたいし/がんざんだいし)とは、平安時代の僧良源(りょうげん)〈慈慧大師(じえたいし)〉のこと。元三大師が正月三日に亡くなったことから、この名前がついています。
関東鉄道常総線 三妻駅から西へ2キロのところにある、安楽寺(天台宗)〔茨城県常総市大生郷〕に祀られています。
大生郷天満宮の別当寺として、この地の北方「古寺家(ふるじけ)」に創建されたのが始まりです。天正04年(1576)北条氏と多賀谷氏との戦火の後、焼失した「満蔵(みてぐら)」の浄土真宗「西覆寺(さいふくじ)」の跡地(現在の場所)に多賀谷氏によって移されました。
茨城百景 包含風景 大塚戸の一言主明神
一言主神社〔茨城県常総市大塚戸町〕は、関東鉄道常総線 水海道駅から西へ5キロ。大同04年(809)の創建とされ、言行一致の神である一言主を祭神とします。
09月13日には、毎年秋季例大祭が行なわれ、葛城流からくり綱火(県民俗文化財)が奉納されます。 (190120)
茨城百景 包含風景 大生郷の天満宮
関東鉄道常総線 三妻駅の西4キロ、坂野家住宅(国重要文化財)の南側に、大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう)はあります。
大生郷天満宮は、延長07年(929)菅原道真の第三子景行(かげゆき)の創建とされています。景行は役人として常陸國に赴任した際、常陸羽鳥(筑西市/真壁町羽鳥)に父道真の遺骨を祭祀しましたが、現在の地の高台に移したとされています。
天満宮の守護のため安楽寺(元三大師)を建立し、祈願寺としました。
本殿・拝殿は天正04年(1576)兵火のため焼失。下妻城主多賀谷氏により再建されました。しかし大正08年(1919)、火災により社殿は焼失してしまいました。
茨城百景 包含風景 大生郷の釣場
茨城県常総市大輪町にある、「皇帝池」(私有地)と仮説。
現時点、常総市界隈で歴史のある「釣り場」はこちらの場所が有力と考えられます。
ワタクシが訪問した際は、水位が低く、魚がいる気配はありませんでしたが、こちらで釣りをされたかたもいらっしゃるようです。 ( 190120)
茨城百景 包含風景 猟場
〔誠意調査中〕
茨城百景 包含風景 長塚節の遺蹟
長塚節の生家〔茨城県常総市国生〕(県指定遺跡)は、関東鉄道常総線 玉村駅から鬼怒川を越え、西へ2キロの場所にあります。
小説『土』の作者である長塚節は、明治12年(1879)豪農の長男として生まれます。1910年、東京朝日新聞に「土」を連載。自らの郷土である鬼怒川西岸流域の、貧しい農家の暮らしを描きました。36才の若さで没しました。