茨城百景_水戸城西ハイキングコース

茨城百景_水戸城西ハイキングコース

茨城百景 名称 水戸城西ハイキングコース
読み方 みとじょうにしはいきんぐこーす
包括風景 大塚沖,中根寺,妙徳寺,常陸湯,有賀神社,河和田城址,道場ケ池,天徳寺,武田耕雲斎の墓
地域 茨城県水戸市
碑の現存 現存する
実際の碑への記載 水戸城西ハイキングコース
説明
関連リンク
注釈 茨城県のサイトでは「水戸城西ハイキンゲコース」(誤:ゲ)の記載が見られるが、「ハイキングコース」の誤りであると考えられる。よって、当サイトでは「ハイキングコース」に修正した表記を採用する。

 

大塚沖 / 大塚池

大塚池〔茨城県水戸市大塚町〕

大塚池〔茨城県水戸市大塚町〕

大塚池〔茨城県水戸市大塚町〕のこと。水戸市市街地(水戸城)からみて西へ約6キロ。県道50号右手に大きな池が広がります。
冬には白鳥が飛来し、池の周囲に整備されたウォーキングロードで汗を流す市民を楽しませてくれます。池の北部には大塚池公園、大塚池公園球場などがあります。

中根寺

中根寺(ちゅうこんじ)〔茨城県水戸市加倉井町〕

中根寺(ちゅうこんじ)〔茨城県水戸市加倉井町〕

水戸駅市街地から国道50号を西へ約10キロ、赤塚駅から西へ2キロ。国道50号左手に中根寺(ちゅうこんじ)〔茨城県水戸市加倉井町〕があります。1224(元仁元)年、文寛律師により開山されました。

妙徳寺

妙徳寺〔茨城県水戸市加倉井町〕

妙徳寺〔茨城県水戸市加倉井町〕

中根寺から北へ600メートル。妙徳寺〔茨城県水戸市加倉井町〕は鎌倉時代の領主破木井氏により、1293(永仁元)年に創建されました。境内を中心とする地域は戦国時代後期の豪族加倉井氏館跡です。

常陸湯

常陸の湯

常陸の湯

妙徳寺から北へ2,3キロ。ゴルフ場の北側、県道113号にある「常陸の湯 茨城百景」の看板がある細い道を下りていった先にあります。源義家が欧州遠征の際、将兵たちの飲み水を求め、水野でそうなところに矢を放ったところ、そこから水が湧き出した、と言う伝説の泉。

1264(文永元)年、小松原の法難で傷ついた日蓮が、傷の養生をしたところ、とも言われています。
妙徳寺はもともとこの「常陸の湯」付近にありましたが、応永04(1397)年、江戸道房の兵乱に焼け、1405(応永12)年、現在の場所〔茨城県水戸市加倉井〕に再興されました。

有賀神社

有賀神社〔茨城県水戸市有賀町〕

有賀神社〔茨城県水戸市有賀町〕

常磐線内原駅から北へ2、3キロ。有賀神社〔茨城県水戸市有賀町〕の祭神は、経津主命(ふつぬしのみこと)。859(貞観元)年の創建と言われています。

「平成の内原十景」に制定され、「有賀神社としだれ桜」と銘打っています。境内入口にはうどん屋さんがあり、繁盛している模様。有賀神社の東200メートルのところには牛伏古墳群があり、古墳郡を散策できる歩道や駐車場が整備されています。

河和田城址

報仏寺/河和田城址の一部〔茨城県水戸市河和田町〕

報仏寺/河和田城址の一部〔茨城県水戸市河和田町〕

常磐線水戸駅から西へ6キロ、赤塚駅から南へ1キロ。報仏寺〔茨城県水戸市河和田町〕があり、入口に碑が建っています。平城であった河和田城は北は天徳寺、南は報仏寺、南西は八坂神社、西は河和田小学校の敷地を持ち、東西約510m、南北約600mの広大な城域を持っていました。

大掾(だいじょう)氏の家臣河和田貞国(さだくに)が1336(建武03年、延元元)年に築いたのが最で、その後鎌倉公方足利持氏の名により、江戸道房、江戸氏の水戸入城後は家臣の春秋が約1世紀にわたり居住しましたが、1590(天正18)年佐竹氏に攻め落とされ、廃城となりました。

河和田城址は前述のとおり平城で広域な敷地を擁していたため、現在の水戸市河和田町内では、至るところに分散された「河和田城址」の案内を見つけることができます。

道場ケ池

〔誠意調査中〕

天徳寺

天徳寺〔茨城県水戸市河和田町〕

天徳寺〔茨城県水戸市河和田町〕

常磐線赤塚駅を南に1キロ、報仏寺の北側。天徳寺〔茨城県水戸市河和田町〕は佐竹氏の創立で、常陸太田の西山にありました。1590年、佐竹氏が水戸を支配すると、東照宮〔茨城県水戸市宮町〕の地内に移りました。1602年、徳川家康により佐竹氏は秋田に追われ、天徳寺も秋田に移りました。

武田耕雲斎の墓

妙雲寺/武田耕雲斎の墓〔茨城県水戸市見川〕

妙雲寺/武田耕雲斎の墓〔茨城県水戸市見川〕

常磐線赤塚駅から南東へ3キロ、千波湖から西へ1キロ。妙雲寺〔茨城県水戸市見川〕境内の一角に武田耕雲斎の墓があります。

耕雲斎は1804(文化元)年に水戸藩の旧家に生まれました。耕雲斎は水戸藩主斉昭の新政の要職に入り、戸田・藤田両氏の没後は尊皇攘夷の運動を進めました。安政の大獄、桜田事変、斉昭の死去などが相次いで起こると藩の動揺分裂が激しくなり、1864(元治元)年春、藤田小四郎などと筑波山で挙兵するに至りました。小四郎ら約一千名と京に上り朝廷に訴えようとしましたが、幕藩の塀に阻止され飢寒に悩まされて加賀藩に降伏。1865(元治02)年、敦賀において断罪に処せられました。

 

 

 

 

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