茨城百景 霞ヶ浦と土浦港
茨城百景 名称 | 霞ケ浦と土浦港 |
読み方 | かすみがうらとつちうらこう |
包括風景 | |
地域 | 茨城県土浦市 |
碑の現存 | 現存しない ※土浦市が公式に存在しない事を認めている |
実際の碑への記載 | 茨城観光100選 土浦港 |
説明 | |
関連リンク | |
注釈 | 茨城観光百選 碑が存在する。 |
霞ヶ浦と土浦港 |
茨城百景 霞ヶ浦と土浦港
霞ヶ浦は、日本で琵琶湖の次に大きい湖です。
かつて土浦市は水運の町として栄えていました。霞ヶ浦の水は土浦市の川口川から土浦駅の西側、亀城公園方面へとつながっていました。

霞ヶ浦 土浦港
手前土浦市街地方面から霞ヶ浦方向を眺めている。昔は、川口川を経由して土浦駅西側と繋がっていました。
土浦では醤油が作られてきました。江戸(東京)方面から船に乗って土浦に来る行商は、筑波山が遠くに見えたとき、筑波山が紫色に霞かかっているのを観て「紫(むらさき)」と言い、土浦の醤油が「紫」と呼ばれるようになりました。そして一般に醤油の事を「紫」と呼ぶようにもなりました。
水郷汽船と土浦入り開発
かつて土浦港には水郷汽船が就航していました。後年、土浦港は常陽観光や常陽商事による観光地化などの手が入った時期がありました。平成になって、デベロッパーによるマンション開発が行なわれましたが、資金難のため開発計画は頓挫。現在では基礎部分だけが露出した、悲しい風景が広がります。

霞ヶ浦の水運全盛期
霞ヶ浦内を船が行き来していた時代がありました。写真は「さつき丸」。

2004年ころの土浦港 ランデブー
以前の土浦港にはレストランがあり、ゴーカートやミニカートなどがある楽しい場所でした。(下に続く)

マンション建設途中で投げ出された土浦港
(上から続く)マンション建設で更地になった土浦港。デベロッパーが逃げてしまい、無残な姿に。。
横利根閘門による淡水化
霞ヶ浦は横利根閘門により海と遮断され、淡水湖になりました。
その後、霞ヶ浦の水は汚れてしまい、気温が上がる時期になるとアオコが浮かび、異臭がします。しかし、それでは再び横利根閘門を開門し、海の水を入れる事で水が循環しきれいになるかというと今度は、霞ヶ浦を淡水の水資源として活用する、農業の方々の仕事がだめになってしまう、という諸刃の部分があり、霞ヶ浦を管理することは難しいのが実情です。
→ 横利根閘門に訪問( 茨城百景 070 釣の十六島と横利根の閘門 )

横利根閘門(茨城県稲敷市/千葉県香取市)
霞ケ浦を海と隔てる水門。この水門により、土浦市街地の水害は減りましたが、水の入れ替わりが滞ることになり、水質は悪化、漁業に悪影響が出ました。

霞ケ浦のアオコ
気温、水温が上昇すると、水の汚れの影響でアオコが発生します。アオコは昭和中期から続く、霞ケ浦の水質問題になっています。
また、霞ヶ浦の水を飲料用の水瓶として使う、と言う構想があります。
実際、霞ヶ浦の水をポンプで、つくば市方面に送り出す機能が整備されていますが、今現在、実用化されておりません。
霞ヶ浦名産 わかさぎ
霞ヶ浦と言えば、ワカサギを思い浮かべる人もいる事でしょう。
土浦のお土産として、「ワカサギの佃煮」は有名です。明治時代、ワカサギをはじめとした漁業が行なわれる中、旧出島村の折本良平先生が高瀬舟からヒントを得て、帆引船を考案しました。帆引船により漁業は良くなりましたが、後年、エンジンを使った船により姿を消し、現在は観光船として数艇のみが夏場に就航されます。
水害に苦しんだ土浦と色川三郎兵衛の尽力
水位の低い土浦駅周辺は、何度も水害に遭ってきました。
色川三郎兵衛(いろかわ さぶろべえ)(天保13年)は水害対策として、常磐線の線路敷設計画の際、線路を堤防として設計させました。水害時には川口川閘門を締め、ポンプを用いて水を排出させる。その結果、土浦市街地の水害を防ぐことができるようにました。

色川三郎兵衛の銅像
土浦港に建てられた色川三郎兵衛の像。

川口川閘門の水門とポンプ
常磐線の線路を堤防(堰)とし、川口川に水門を設け、漏れてくる水をポンプで排水することで、土浦市街地の水害を防ぐことに成功しました。
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