赤山陣屋跡~関東郡代 伊奈忠治の拠点
伊奈忠治――
伊奈忠治〔1592-1653〕は、伊奈忠次の息子(次男)です。
忠治の跡取りであった長男忠政が若くして亡くなり、忠政の子忠勝も幼くなして亡くなりました。
そのため、関東代官職は忠次の次男である忠治が継ぐことになりました。
赤山陣屋 (赤山城址)
父忠次は現在の埼玉県北足立郡伊奈町小室と、鴻巣に屋敷を構えましたが、次男忠治は現在の埼玉県川口市赤山に赤山陣屋(赤山城)を構え、拠点としました。
赤山陣屋は、代官(通称 関東郡代)伊奈氏が江戸幕府の直轄地を治めるためその任地に設けた役所の一つで、元和04年(1618)頃伊奈家3代忠治によって創建されたといわれています。
陣屋の構造は右図の通りで、約2万4千坪の広さがありました。陣屋の中枢部には、表御門・裏御門・御家形(おやかた)・御役家(おやくけ)・御的場といった施設があり、北側と西側は2重の堀でかこまれていました。外堀には水があり、内堀は空堀で、この内側には土塁が築かれていました。また東側には山王三社と家臣団屋敷、南側・西側にも家臣団屋敷がありました。この屋敷は、堀の内に17、外に1あり、その他に門番屋敷などもありました。屋敷の規模で一番多かったのは一町前後のものです。
陣屋の内外の道路はT字路で直角に曲がっているものが多く、その両側には家臣団の屋敷や社寺が配置され、赤山陣屋はあたかも小さな城下町のようでした。社寺には、山王三社といわれる山王社・八幡社・天神社と、伊奈家の菩提寺であった源長寺がありました。
なお、伊奈家は、寛政04年(1792)12代忠尊(ただたか)の時、幕府政治の変化と老中の騒動が原因で改易され、赤山陣屋も廃止されました。このため陣屋の建物や家臣団屋敷は取り壊されて畑地となり、今は空堀と社寺を残すのみとなっています。
平成31年03月31日
川口市教育委員会
ルート
名称:赤山陣屋跡 (赤山城址)
住所:埼玉県川口市赤山
最寄り駅:戸塚安行駅、新井宿駅、東川口駅
関東郡代 伊奈忠治の仕事
伊奈忠治は父忠次、兄忠政の仕事をを引き継ぎ、利根川、荒川の改修、新田開発、治水工事などに携わりました。現在の埼玉県さいたま市緑区の「八丁堤」や、茨城県つくばみらい市の「福岡堰」も、忠治の仕事です。
八丁堤 〔埼玉県さいたま市緑区〕
福岡堰 〔茨城県つくばみらい市福岡〕
今日の #福岡堰 。
初夏の気候。 pic.twitter.com/6nHyBtLugq— 旅人幸甚 @新治郡千代田村 (@brand_kas) May 21, 2017
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〔 この項おしまい 〕