常陽新聞社 (常陽新聞新社) – 常陽新聞
常陽新聞 。
常陽新聞 は茨城県南地域で発行されていた、地方紙。
常陽新聞社 は何度かの経営危機、自己破産、新会社による立ち上げ等、紆余曲折がありましたが、2019年現在で「常陽新聞」を名乗る新聞、雑誌は発行されていません。
初代常陽新聞社 社長 岩波健一の墓
初代 常陽新聞社 社長は 岩波健一。創業時は「豆日刊土浦」と命じていました。
ワタクシ幸甚が幼少のころは、常陽新聞社 の経営は軌道に乗っていました。
しかし、科学万博-つくば’85(昭和60年/1985年)が開催される前年、昭和59年04月27日に岩波健一氏は亡くなりました。
科学万博でモールの運営に失敗
科学万博 開催のときに、万博会場の北ゲート付近に作った駐車場経営に失敗し、結果倒産しました。
その後、中川清土浦市長〔市長任期:2004(平成16年)~2019(令和元年)〕の関連会社、中川ヒューム管工業や、カスミなどが出資して設立されたのが、常陽新聞新社 です。しかし、常陽新聞新社も、2013年(平成25年)08月31日の朝刊の発行を持って廃刊、自己破産となりました。
今回は、その「常陽新聞新社」〔茨城県土浦市真鍋〕が自己破産したときの、訪問レポートです。(「豆日刊茨城」2013/09/02 を加筆修正しての掲載)
2013年 常陽新聞新社が自己破産をする
常陽新聞新社〔茨城県土浦市〕が自己破産をしました。
私が愛する『常陽新聞』も、2013年8月31日(土)の朝刊の発行を持って廃刊となります。(常陽新聞は夕刊を発行していない)
上野から常磐線で土浦に向かい、常陽新聞新社社屋へ
そのニュースは、Yahooサイトにて知りました。
8月31日の正午は用事があり、用事が終了次第、上野駅から土浦駅に向かいました。土浦駅からは、迷うことなくタクシーを利用。
通称「木の橋」の所で降ろしてもらうと、常陽新聞新社の社屋はひっそりとしていました。
破産申立書
社屋の入口には、弁護士による「破産申立書」が貼られていました。
記
株式会社常陽新聞新社
本日、上記の者につき、当職らが申立代理人として破産申立を
行いました。今後は裁判所より破産管財人が選任され、以後破産
管財人により当敷地及び建物並びに全ての動産物は占有管理され
ます。
よって、みだりに立ち入りあるいは搬出等する者は、窃盗罪等
により告訴いたします。
なお、不審人物等を目撃された方は、お手数ですが当事務所ま
でご一報下さい。
平成25年 8月30日(住所 略)
(事務所名 略)
(電話番号 略)
弁護士 (弁護士名 略)
※上記は、原本より引用。表記送りがな、改行すべて原本のまま。
常陽新聞新社の風景
ガラス越しに事務所内を覗いてみると、人の気配がありません。
後から確認したことですが、午前中は社員の方が出社していたようで、
事後整理などを行ない、正午には退社したそうです。
かつて、KOUJINN(旅人)は一度だけ、常陽新聞新社の建物に入ったことがあります。常陽新聞新社がまだ、常陽新聞社だった時に発行された書籍を購入するためでした。
今回、常陽新聞新社は1億2千万円もの負債を抱えての倒産となります。
もしKOUJINN(旅人)がお金持ちで、3億くらいキャッシュがあったら買収したい位でした。
それは、(旧)常陽新聞社を創業した、故・岩波健一の志を絶えさせたくなかったためです。
KOUJINN(旅人)は あの頃(科学万博があった頃)、まだ小学生でしたが、今こうして生きている骨組みの一つに、
岩波健一 の存在があるような気がします。
岩波健一が在命であれば、また違った土浦市があったような気もします。
8月も今日で終ろうとしているのに、夏のこの暑さはかないません。。
日差しが強く、じりじりと体を焦がしていきます。
少しでも長く、岩波健一の死を看取るような気持ちで、ずっとこの場所「常陽新聞社」(あえて旧社名で書かせてください)前にいたい気持ちでした。
しかし、汗は止めどなく流れていき、KOUJINN(旅人)の体をむしばんでいきます。
最後に一度、常陽新聞社に振り向き、目に焼付けます。
恐らく、次に来ることがあったとしても、この建物は更地になっているかも知れません。。
暑さでふらふらしながら、亀城公園(きじょうこうえん)〔茨城百景 011 桜川堤と亀城公園 〕まで歩き、バスに乗って土浦駅を目指します。
オレンジ小網屋の跡地を過ぎます。
大徳さんの所は建物を壊し、工事中でした。新しいお店ができるのでしょうか。
土浦京成百貨店の跡地。
紳士服オグラさんは、2004年に閉店してしまいましたね。
小網屋や西友跡地(西友解体中に敷地に入れてくれました)は更地になった後、マンションが完成しましたね。
モール505の今後も気になります。
丸井土浦店が閉店し、当時は閉店理由が「建物の老朽化」とも言われていましたがビルは解体されず、複合商業ビルになりましたね。
最後の砦だったイトーヨーカドー土浦店も、つい先日、閉店してしまいましたね。。
※閉店時、訪問することができず、申し訳ございませんでした。
土浦入り〔茨城百景 010 霞ケ浦と土浦港〕にあった京成マリーナはデベロッパーに土地を明け渡したものの、そのデベロッパーが倒産し、土地計画そのものが頓挫しましたが、その後、どうなったのでしょうか。
土浦にいろいろ思うこと多数。。
流れるのは、汗か、涙か。
寂しく去秋に浸ることもある。
それでも私は、いばらきだいすき。
常陽新聞(最終号)は土浦駅のキヨスクでは完売で、買うことができませんでした。
つくばに住むいとこに、購入をお願いしておきました。
このページは、2013年08月31日に取材した内容に基づいて書かれ、2013年09月02日に公開されています。その記事を2018年01月15日に、加筆修正される形で公開しました。
詳しい記事を書いていただき、誠に感謝しております。ありがとうございます。わたしは2004年の夏から倒産直前まで在籍していた常陽新聞社&新社の元社員です。わたしが入社した当時は、一度目の倒産(1985年)を経験したこと踏ま得た上で、地元の金融機関、常陽銀行から出向してきた人が経理部長を務めていて無駄な出費や経費のスリム化に特に神経質になっていた時代でした。
私は入社前は都内の雑誌ライターを仕事にしておりまして、新聞記者というのは常陽新聞が初めてでした。しかしスポーツ面を担当するのは私ともう一人のたった二人。人手不足は否めず、ひとりでカメラマンとカメラを兼任し、加えて二人で毎日スポーツ関連の記事でスポーツ面一面を埋めなければいけないというジレンマがありました。県紙でライバル紙の茨城新聞は対照的に、六人ほどの社員がスポーツ担当記者として紙面をカバーし、しかもスポーツ専属カメラマンも当時は別に在籍していました。とても羨ましかったのを今ありありと思い出すことができました。ありがとうございます。
大村様
コメントをいただきまして、ありがとうございます。
今となっては「常陽新聞」の存在も忘れ去られてしまいそうなほど、世の中が大きく進んでいます。
常陽新聞”新”社以降、私は離れた視点から常陽新聞をときどき購読していました。
常陽新聞の地域「県南」のニュースが掲載されているページが好きでした。
(土日は「県南地域」のページが無いことが多かった記憶があります)
ある日、Yahooニュースに「常陽新聞新社が倒産」と掲載されており、あわてて都内から真鍋まで駆けつけました。
あの倒産した当日、ちょっと無理してでも常陽新聞新社社屋に訪問し、あの空気を感じ取っておいて良かったと思っています。
数年前、社屋があった場所に訪問したら、社屋は無くなっていました。
住宅地になっていて、当時の面影は全く無くなっていました。
それで良い、とも思いました。
土浦の一時代に、「常陽新聞」という媒体があったことを、誇りに思っています。
コメントをいただきまして、重ね重ね、ありがとうございました!