茨城百景_石岡史蹟巡りと閑居山

茨城百景_石岡史蹟巡りと閑居山

茨城百景 名称 閑居山と石岡史蹟巡り
読み方 かんきょさんといしおかしせきめぐり
包括風景 国分寺,国分尼寺址,府中城址,恋瀬川,総社神社,龍神山,平国香の墓,五輪堂,大師堂,都々逸坊扇歌の墓,浜海道の松並木
地域 茨城県石岡市
碑の現存 現存する
実際の碑への記載
説明
関連リンク
注釈

 

閑居山

閑居山_百体磨崖仏

閑居山_百体磨崖仏

旧千代田村から唯一選出されている閑居山〔茨城県かすみがうら市上志筑(かみしづく)〕。
弘法大師が東国遍歴の途中に閑居したという伝説に基づいたのが、名の由来。昔は志筑山とも呼ばれ、弘法大師創建の願成寺がありました。

中志筑のバス停すぐ近くに、茨城百景「石岡史蹟巡りと閑居山」の碑があります。碑の左手を進み、旧地名である「千代田町」の看板を眺めながら森林総合研究所方面に進んで行くと、閑居山に踏み入れることになります。

閑居山入口には廃墟があり、山中にところどころ仏像が並べられていたり、灯籠が置かれている光景は、少し不気味。手描きの「至 磨崖物」の案内板と踏み跡を頼りに山を登ること10数分。百体磨崖仏(県指定文化財)と呼ばれる、花崗岩に薄肉線刻で彫られた100体あまりの仏像群の場所に出られます。

 

国分寺

常陸國分寺址(国指定史跡)

常陸國分寺址(国指定史跡)

国分寺(常陸国分寺跡/国史跡)は、石岡駅から北北西に600mの場所。
天平13年(741)、国家鎮護を祈る聖武天皇の名で、国分尼寺とともに国ごとにおかれた僧寺です。

国分尼寺址

常陸国分尼寺跡(国指定史跡)

常陸国分尼寺跡(国指定史跡)

常陸国分寺跡から北西に約800m、府中小学校に隣接して常陸国分尼寺跡(国史跡)があります。
東西約100m、南北約150mの広大な土地の中に、中門、近藤、講堂の基礎石が保存されています。

府中城址

府中城址 / 府中小学校敷地

府中城址 / 府中小学校敷地

石岡市立石岡小学校が跡地。

石岡小学校から市民会館にかけての一体が常陸国衙跡と推定されています。国衙とは国司の役所を指し、その所在地を国府と言います。
古代、常陸国府は現在の石岡市におかれ、常陸国衙は国内の11郡を統括する役所でした。
中世、南北朝時代の正平元年(1346)、大掾詮国(だいじょうあきくに)により府中城が築かれました。常陸大掾氏は常陸國南部において府中城を拠点として勢力を誇りました。本丸、二の丸、三の丸のほか複数の出丸を備え、幾十にも堀を巡らせた堅固な平城でした。天正18年(1590)、佐竹義宣の攻撃で府中城は落城し、大掾氏も滅亡しました。

 

恋瀬川

→ 高浜の釣場 〔茨城百景 高浜の釣場〕参照

 

総社神社

常陸國総社宮〔茨城県石岡市総社〕

常陸國総社宮〔茨城県石岡市総社〕

常陸國総社宮のこと。180916

大国主命(おおくにぬしのみこと)ら天神地祇6柱の祭神を合祀する常陸國総社宮。総社の名は多くの神社の祭神を一か所に集めて祀ったことに由来します。

毎年09月中旬の三連休、常陸國総社宮例大祭(通称:石岡のおまつり)では、例祭、神幸祭、奉祝祭、還幸祭と執り行なわれます。期間中、見物客、観光客は毎年40万人を数えると言われ、「関東三大祭」のひとつになります。

 

龍神山

龍神山 / 常陸風土記の丘として一部整備されています

龍神山 / 常陸風土記の丘として一部整備されています

龍神山(りゅうじんさん)山腹の染谷、山麓の村上には佐志野神社(さしのじんじゃ)の名の2社があり、それぞれ雄竜神(おりゅうじん)、雌竜神(めりゅうじん)を祀ります。

 

平国香の墓

龍ヶ崎に同名の石があります #綱火高岡流の旅18 180826

平国香は平将門の叔父に当たり、将門が反乱を起こした際、これと戦い戦死した人物。塔の西側の安楽寺は国香の息子貞盛が父の供養のため建立したものと言われています。

《ヒント》
平福寺(石岡市富田町の北向き観音堂の裏の寺)
平の国香が約1000年前に建立した。

 

五輪堂

(新)五輪堂橋〔茨城県石岡市半田〕

(新)五輪堂橋〔茨城県石岡市半田〕

恋瀬川にかかる橋。五輪堂橋。
平成26年、200mほど北上した場所に新しい五輪堂橋がかかりました。旧橋は取り壊されました。

 

大師堂

常陸國分寺 大師堂〔茨城県石岡市府中〕

常陸國分寺 大師堂〔茨城県石岡市府中〕

※国分寺跡敷地内 180915

都々逸坊扇歌の墓

都々逸坊扇歌堂(都々一坊扇歌堂)〔茨城県石岡市府中〕

都々逸坊扇歌堂(都々一坊扇歌堂)〔茨城県石岡市府中〕

国分寺跡の敷地内にある。180915
都々逸坊扇歌は文化元年(1804)、医者岡玄策の子として久慈郡磯部村(現 常陸太田市磯部)に生まれました。幼少の頃、病で失明同様となりましたが、芸の道を志し、20歳のとき江戸に出て船遊亭扇橋の弟子となりました。天保09年(1838)一枚看板を許され、新しく「都々逸節」を作り、都々一坊扇歌となりました。
しかし、幕府を批判したため江戸を追放されてしまいました。追放された扇歌は、姉の嫁ぎ先である府中香丸町の酒井長五郎の旅宿に身を寄せ、嘉永05年(1852)、48歳で没しました。
常陸太田市に生誕の地の碑があります。

 

浜海道の松並木

石岡の一里塚〔茨城県石岡市字並木東〕

石岡の一里塚〔茨城県石岡市字並木東〕

浜街道とは全国に名があります。府中石岡で言うところの「陸前浜街道」のこと。石岡の一里塚。

 

 

 

 

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