057 鹿島神宮景勝地

茨城百景 鹿島神宮景勝地

茨城百景_鹿島神宮景勝地

茨城百景_鹿島神宮景勝地

 

茨城百景 名称 鹿島神宮景勝地
読み方 かしまじんぐうけいしょうち
包括風景 神宮橋,根本寺,広望館,神宮原始林,鎌足神社,息栖神社,下津平井海岸
地域 茨城県鹿嶋市
碑の現存 現存する
実際の碑への記載 鹿島神宮景勝地
説明
関連リンク
注釈
190901_鹿島神宮 提灯まちと神幸祭_レンタサイクルで行く鹿嶋の海水浴場_~鹿島の祭の旅19

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181224 #波崎の先の旅18
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170506 #ぐるり茨城17

 

茨城百景 鹿島神宮景勝地

鹿島神宮

鹿島神宮 拝殿。

鹿島神宮 拝殿

鹿島神宮〔茨城県鹿嶋市宮中〕は、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)を祭神とする常陸国一宮です。

神代の昔、天照大御神(あまてらすおおかみ)の命を受けた武甕槌大神は香取の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)と共に出雲国へ向かわれ、国譲りをを成就し、皇孫の国たるべき日本の建国に挺身されました。
古代東国から筑紫の国に向かう防人たちは、この神に武運長久を祈り船出していきました。「鹿島立ち」の言葉の起こりでもあります。

初代神武天皇は東征なかばにおいて思わぬ窮地に陥れられましたが、大神の「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」の神威により救われました。以来、皇室をはじめ藤原氏などの崇敬もうけ、中世、近世には源頼朝、徳川将軍家の祈願や寄進が寄せられました。

楼門は、水戸徳川家初代藩主徳川頼房による寄進。国重要文化財。
本殿、拝殿、幣殿、石の間からなる権現造の社が建ちます。国重要文化財。

鹿島神宮 楼門(国指定重要文化財)<br>水戸初代藩主徳川頼房の寄進による楼門。

鹿島神宮 楼門(国指定重要文化財)
水戸初代藩主徳川頼房の寄進による楼門。

震災後、平成26年に完成した、杉の木の鳥居。

震災後、平成26年に完成した、杉の木の鳥居。

鹿島神宮 本殿(国指定重要文化財)

鹿島神宮 本殿(国指定重要文化財)

燈籠には「式年御船祭」の文字。

燈籠には「式年御船祭」の文字。

鹿島神宮 仮殿(重要文化財)

鹿島神宮 仮殿(重要文化財)

 

茨城百景 包括風景 神宮橋

茨城百景 包括風景 神宮橋<br>この橋は「新神宮橋」。向こうの橋が「神宮橋」

茨城百景 包括風景 神宮橋
この橋は「新神宮橋」。向こうの橋が「神宮橋」

鹿嶋市と潮来市の間に流れる鰐川(北浦)。その川に架かる橋が神宮橋です。
現在は北側に新神宮橋が架かり、鹿嶋バイパスとして利用されています。いずれも国道51号。

神宮橋の南側川岸には、西の一之鳥居があります。

#潮来花嫁さんは自転車で行く18

 

茨城百景 包括風景 根本寺

根本寺 本堂〔茨城県鹿嶋市大字宮中〕

茨城百景 包括風景 根本寺〔茨城県鹿嶋市大字宮中〕

「鹿島紀行」の芭蕉の句碑。

芭蕉「鹿島紀行」句碑。「月はやし 梢は雨を 持ちながら」。

根本寺(こんぽんじ)〔茨城県鹿嶋市大字宮中〕は、JR鹿島線 鹿島神宮駅から南西へ600メートルの場所にある、臨済宗のお寺です。推古天皇の命により、聖徳太子が創建したと伝えられています。元治元年(1864)、天狗党の争乱により建物は消失しましたが、昭和57年(1982)に再建されました。

貞享04年(1687)、松尾芭蕉は仏頂和尚と月見をするため門人の河合曽良、宗波とともに訪れています(鹿島紀行)。
その際、「月はやし 梢は雨を 持ちながら」、 「寺にねて まこと顔なる 月見かな」の句を残しています。

 

茨城百景 包括風景 広望館

(誠意調査中)

 

茨城百景 包括風景 神宮原始林

茨城百景 包括風景 神宮原始林

茨城百景 包括風景 神宮原始林

鹿島神宮境内は、壮大な森を大切に守られてきました。茨城県内随一の樹叢形成され、県の天然記念物に指定されています。野鳥の数も多く、鹿嶋鳥獣保護区、鹿嶋特別保護地区にも指定されています。

要石

鹿島神宮 要石 鳥居

鹿島神宮 要石 鳥居

鹿島神宮 要石

鹿島神宮 要石

要石(かなめいし)は神世の昔、香島の大神が座された、万葉集に言う石の御座(ござ)とも伝えられています。
地面を掘っても掘っても、石は大きく存在しているとされています。水戸黄門の仁徳録には「七日七夜掘っても掘り切れず」と書かれており、地震押さえ(ナマズ押さえ)の伝説ともなっています。

 

御手洗

鹿島神宮 御手洗

鹿島神宮 御手洗

御手洗(みたらし)は古来、神職並びに参拝者が身を洗う(身を清める)ための池です。祭神が天曲弓(あめのまがゆみ)で御手洗を掘った際、一夜にして水が湧いたと伝えれています。
水位は大人子どもによらず、胸の高さを超えないという伝説により、七不思議のひとつに数えられています。

#鹿島の祭の旅19

 

茨城百景 包括風景 鎌足神社

茨城百景 包括風景 鎌足神社

茨城百景 包括風景 鎌足神社

鎌足神社〔茨城県鹿嶋市大字宮中〕は、古来より藤原鎌足の誕生の地とする伝承が残っている場所です。藤原鎌足の生誕地は史書「大鏡」によると、ここ鹿嶋市。大和国、奈良県橿原市(かしはらし)の二つの説があります。

#鹿島の祭の旅19

 

茨城百景 包括風景 息栖神社

茨城百景 包括風景 息栖神社

茨城百景 包括風景 息栖神社

息栖神社〔茨城県神栖市〕は、鹿島神宮〔茨城県鹿嶋市〕、香取神宮〔千葉県香取市〕とともに、東国三社のひとつとして人々の信仰を集めました。古くは神栖市日川に鎮座していた祠を、大同02年(807)、右大臣藤原内麿の命により、現在地の息栖に遷座したと伝えられています。

東国三社 息栖神社

東国三社 息栖神社

祭神は、岐神(くなどのかみ)、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)、住吉三神として祀っています。中世には、鹿島神宮の検非違使が神主を兼ねていました。
社殿は享保08年(1723)に建てられましたが、昭和35年(1960)10月に消失。昭和38年05月に新たに再建されました。

息栖(いきす)はもと「おきす」と呼ばれ、入り海にできた州のなかに社が建てられたものと考えられています。かつて一の鳥居は、海上に建てられていました。

息栖神社 一の鳥居

息栖神社 一之鳥居〔茨城県神栖市息栖〕

息栖神社 一之鳥居〔茨城県神栖市息栖〕

江戸時代に入るまでの利根川は一本の川ではなく、直接東京湾に注ぎ込み、現在の利根川中・下流域は常陸川と呼ばれていました。このふたつの川が改修工事によって一本の河川となり、江戸への舟運路として成立したのが承応03年(1654)です。

当時の江戸は一大消費地となっていました。商品、農水産物の多くは利根川を舟運によって上下し、その集散地となったのが川岸に点在する「河岸(かし)」でした。利根川の舟運は物資の輸送に役立っただけではなく、旅人にも大いに利用されました。

息栖河岸にも、東国三社参詣の人々や下利根川地方遊覧の人々が各地から押しよせ、たいへんな賑わいをみせました。

 

息栖神社 忍潮井

忍潮井 女瓶(おしおい めがめ)

忍潮井 女瓶(おしおい めがめ)

忍潮井 男瓶(おしおい おがめ)

忍潮井 男瓶(おしおい おがめ)

常陸利根川沿いの大鳥居、一の鳥居の両脇に設けられたふたつの四角い井戸が「忍潮井(おしおい)」です。それぞれの井戸の中に小さな鳥居が建てられ、岩石でできたふたつの瓶の底から真水が湧き出しています。このふたつの瓶は、「男瓶(おがめ)」、「女瓶(めがめ)」と呼ばれています。

忍潮井は伊勢(三重)の明星井(あけぼのい)、山城(京都)の直井と並び、日本三霊泉のひとつに数えれています。この井戸はもともと、川(入り海)の水底にありましたが、河川改修により現在地に移されました。

 

茨城百景 包括風景 下津平井海岸

「下津平井海岸」とは現在、下津地区と平井地区にある海水浴場のことです。
昭和30年代の鹿島港建設計画/鹿島臨海工業地帯の開発等に伴い、影響を受けているものと考えられます。

下津海水浴場

茨城百景 包括風景 下津平井海岸茨城百景「鹿島神宮景勝地」の包括風景。「下津平井海外」でまとめられた名称ですが、こちらは「平井海岸」です。

茨城百景 包括風景 下津平井海岸
茨城百景「鹿島神宮景勝地」の包括風景。「下津平井海外」でまとめられた名称ですが、こちらは「平井海岸」です。

下津海水浴場(おりつかいすいよくじょう)〔茨城県鹿嶋市大字下津〕は、鹿島神宮駅から東に5キロの場所にある、海水浴場です。

平井海水浴場

茨城百景 包括風景 下津平井海岸

茨城百景 包括風景 下津平井海岸

平井海水浴場は〔茨城県鹿嶋市大字平井〕は、鹿島神宮駅から東に5キロの場所にある、海水浴場です。

#鹿島の祭の旅19

 

 

 

 

 

 

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