茨城百景 伝正寺と加波足尾
茨城百景 名称 | 伝正寺と加波足尾 |
読み方 | でんしょうじとかばあしお |
包含風景 | 真壁城址,加波山神社 |
地域 | 茨城県桜川市 / 旧真壁町 / 筑波鉄道 真壁駅跡、石岡市 |
碑の現存 | 現存する |
実際の碑への記載 | 伝正寺と真壁城址 (傳正寺と眞壁城址) |
説明 | 伝正寺は東日本大震災(3.11)により被災し、立ち入り禁止、見学禁止となっています。 |
関連リンク | 豆日刊茨城 「どっこい真壁の平四郎」の“伝正寺”は危機 (060226) |
注釈 | |
筑波連峰を縦断する -御嶽山/雨引山/燕山/加波山/足尾山 201108
【加波山から足尾山】一本杉峠 一帯で道に迷う、の巻~筑波連峰を縦断する旅20 201110 |
茨城百景 名称 | 伝正寺と加波足尾 |
読み方 | でんしょうじとかばあしお |
包含風景 | 真壁城址,加波山神社 |
地域 | 茨城県桜川市 / 筑波鉄道 樺穂駅跡 |
碑の現存 | 現存する |
実際の碑への記載 | 加波山 足尾山 |
説明 | |
関連リンク | |
注釈 | |
桜川市真壁町(旧真壁町)の茨城百景は、公式には『伝正寺と加波足尾』になります。
該当区域に存在する茨城百景碑に、「伝正寺と加波足尾」と言う名称の碑は存在しません。似た名称の茨城百景碑は真壁地域にふたつ存在します。
ひとつは旧筑波鉄道の真壁駅跡地、つくばりんりんロード真壁休憩所にある『傳正寺と眞壁城址』。もうひとつは、『加波山 足尾山』になります。
茨城百景 傳正寺と眞壁城址
茨城百景 傳正寺 (伝正寺)
真壁駅から東へ2,300mの山を昇りかけた場所に、茨城百景に制定されている中のひとつである、伝正寺(曹洞宗 天目山)が存在します。
『どっこい真壁の伝正寺』というという言葉を耳にしますが、この言葉の起源が「伝正寺=平四郎」ではないのかという推察があります。平四郎の名は真壁平四郎と言い、真壁時幹(ときもと)の下僕でした。
雪の降る日、平四郎は時幹の草履を胸元に入れ暖めていました。暖かい草履を履いた時幹は、“(自分の)草履を尻にでも敷いていたのだろう”と平四郎を弾圧しました。
辱められた平四郎は時幹の元を離れ、宋に出家。後に松島瑞巌寺を開きました。平四郎は亀山天皇から「法身国師」の号を送られました。
法身(平四郎)が真壁に帰ると、時幹は非礼を詫び、照明寺(しょうみょうじ)を建立寄進。後に伝正寺と呼ばれるようになりました。
茨城百景 眞壁城址 (真壁城址)
常陸大掾平貞盛の後裔真壁氏の居城跡。
多気直幹の子の長幹が承安02年(1172)に真壁の地に移り、真壁城を築城し、真壁氏を名乗るようになりました。以後、真壁氏は約400年間、この真壁地方を治めました。
戦国時代、真壁氏は隣郡の小田氏と対立しながら、次第に佐竹氏と結びつきを強くしていきます。やがて、関ヶ原の合戦後に、佐竹氏は家康から出羽国への国替えを命じられます。家臣の地にあった真壁氏も共に真壁の地を離れることになりました。
以降、真壁の地には浅野氏、稲葉氏が入りましたが、稲葉氏が寛永05年(1628)に下野真岡に移封されると、真壁は幕府領となり、真壁城も廃城となりました。
茨城百景 加波山 足尾山
茨城百景 加波山
加波山は筑波連山第二の高峰であり、北に御嶽山、雨引山、南に足尾山ときのこ山が続きます。
加波山山頂に加波山神社本宮が鎮座し、8月には山伏の修行である禅定が今でも行われているとのこと。
茨城百景 包含風景 加波山神社
茨城百景 足尾山