日立風流物~7年に一度の神峰神社大祭礼は、なぜ大雄院通りで行われるのか_190630

日立風流物~7年に一度の神峰神社大祭礼は、なぜ大雄院通りで行われるのか_190630

2019年(令和元年)05月03日(金)~05日(日)。
茨城県日立市宮田町にある『大雄院通り』で、神峰神社 大祭礼 日立風流物の演技が催されました。

日立風流物 本町の山車

日立風流物 本町の山車

2005年に初めて大雄院通りに来たとき、「なぜ、こんな通り(=大雄院通り)で日立風流物を行うの?」と疑問が湧きました。
http://ibaraki-daisuki.main.jp/burari/2005/050504_02_kamine_taisairei_050818.htm

 

『日立さくらまつり』の日立風流物は、平和通りで行われる

平和通りの日立さくらまつり

日立さくらまつり〔平和通り〕<br>毎年04月に催される日立さくらまつりでは、4町のうちの1町が当番となり、山車を披露します。

日立さくらまつり〔平和通り〕
毎年04月に催される日立さくらまつりでは、4町のうちの1町が当番となり、山車を披露します。

桜の時期の毎年04月、常磐線日立駅前から延びる「平和通り」にて『日立さくらまつり』が催されます。平和通りに植えられた桜の花が見頃を迎えるとあり、日立市内外から多くの観光客が『日立さくらまつり』に訪れます。

毎年開催される『日立さくらまつり』では、4つの町(東町、西町、北町、本町)が毎年1年ごとに持回りで山車を平和通りに用意し、日立風流物の演技を行います。なので、日立風流物の山車と言うと、平和通りを連想させます。なのになぜ、大雄院通りで大祭礼の日立風流物は催されるのでしょうか?

 

大雄院通りの神峰神社大祭礼

神峰神社 大祭礼 〔大雄院通り〕<br>7年に一度の大祭礼では、大雄院通りで4町すべての山車が出そろいます。

神峰神社 大祭礼 〔大雄院通り〕
7年に一度の大祭礼では、大雄院通りで4町すべての山車が出そろいます。

『大雄院通り』は神峰神社やかみね公園が近くにあり、国道6号と接続する通りです。神峰神社に訪れる人やかみね公園(遊園地、動物園)に訪れる人が、この辺りに来るのは理解できます。
しかし、『神峰神社 大祭礼』がなぜ『大雄院通り』で催されるのか?ここ『大雄院通り』とは、何なのか?その回答を自分なりに導きました。

(私自身、「日立風流物」を観に来る目的から始まった日立訪問だったので、日立の歴史を積極的に調べるスタンスではありませんでした。そのため、この答えにたどり着くまでに、10年以上も時間が掛かりました。)

 

大雄院通りは日立鉱山労働者の、中心街だった

展示展「ふるさと日立と共に」(期間:2017年11月21日~26日)<br>日立駅前のイトーヨーカドーで開催された共楽館創建100周年記念パネル展。NPO法人 共楽館を考える集い 主催。

展示展「ふるさと日立と共に」(期間:2017年11月21日~26日)
日立駅前のイトーヨーカドーで開催された共楽館創建100周年記念パネル展。NPO法人 共楽館を考える集い 主催。翌26日は、映画化が決定した「ある町の高い煙突」の松村克弥監督が来場されました。

イトーヨーカドー日立店で開催されたパネル展で、大雄院通りの共楽館や、電気鉄道の歴史、本山地区の歴史等、初めて深く日立の歴史に踏み込むことができました。


 

精錬所のあった大雄院地区

日立のシンボルである、日立の大煙突〔茨城百景 007 日立の大煙突〕

日立のシンボルである、日立の大煙突〔茨城百景 007 日立の大煙突

かつての日立市の中心地は日立鉱山(本山地区)や、日立鉱山の精製所があった大雄院(だいおういん)地区でした。炭鉱で働く人達は、鉱山があった本山(もとやま)地区や大雄院地区に住み、生活を営んでいました。大雄院地区には大雄院小学校(1909-1979)ができ、最盛期には約1200人の学生を抱えていました。

大雄院小学校(昭和44年)

大雄院小学校(昭和44年)

大雄院小学校 閉校記念 の碑日立鉱山の最盛期には、1500人もの学生が通学しました。

大雄院小学校 閉校記念 の碑
日立鉱山の最盛期には、1200人もの学生が通学しました。

 

娯楽施設として利用された共楽館

共楽館(現 日立武道館)<br>本山の日立鉱山で働く労働者や家族を楽しませた共楽館。映画や舞台、歌謡ショーなど催されました。

共楽館(現 日立武道館)
本山の日立鉱山で働く労働者や家族を楽しませた共楽館。映画や舞台、歌謡ショーなど催されました。

また、日立鉱山の労働者の娯楽施設であった「共楽館」(今は日立武道館と呼ばれています)では、歌手が歌を歌ったり、演劇が催されたりして、労働者やその家族達を楽しませました。今でこそ、大雄院通りは静かな町ですが、当時は活気のある町だったのです。

展示展「ふるさと日立と共に」(主催:共楽館を考える集い)

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電気鉄道が常磐線助川駅と大雄院をつないだ

日立鉱山電気鉄道のパネル<br>日立鉱山が始まると同時に営業を開始し、鉱山に関わるものや人を乗せました。約50年間の営業でした。

日立鉱山電気鉄道のパネル
日立鉱山が始まると同時に営業を開始し、鉱山に関わるものや人を乗せました。約50年間の営業でした。

助川駅(今の日立駅)前からは、 日立鉱山電気鉄道が本山地区まで走っていました。鉱物や塩酸(鉱物から銅を採りだすために使用する)などを運ぶほか、本山地区に住む住人が乗車できる旅客営業も行っていました。最盛期には24時間、電気鉄道は運行営業していました。

1908年(明治41年)に運行を開始した日立鉱山電気鉄道は、精錬所の合理化や、トラック、バスの運行に取って代わられ、約20年後の1960年(昭和35年)に廃止となります。

 

日立鉱山労働者の主な住居地区だった大雄院通り

普段の大雄院通り

普段の大雄院通り

日立鉱山がある本山地区と、精錬所のある大雄院地区は、日立の産業の中心地でした。その二つの拠点をまっすぐ下りてきた道路が、大雄院通りだったです。

日立鉱山の歴史の重要地域であった大雄院。そこへつながる通りを重んじて、神峰神社大祭礼のメイン会場に使われている。そういう意味があって、「大雄院通り」が会場だったのですね。

日立鉱山の全盛期時代を知らない、日立市民でもない日立市外のワタクシ幸甚が、『大雄院通り』に感じた素朴な疑問と解答でした。

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