茨城百景 大宝八幡
茨城百景 名称 | 大宝八幡 |
読み方 | だいほうはちまん |
包含風景 | 大宝城址,関城址,黒子千妙寺,梶内観音 |
地域 | 茨城県下妻市 筑西市 , 常総線 大宝駅 騰波ノ江駅 黒子駅 |
碑の現存 | 現存する |
実際の碑への記載 | 大寶八幡宮 |
説明 | |
関連リンク | ・200209 #火渡りの旅20 辻集落の火渡祭 ・【動画】火を持った男が暴れる奇祭! タバンカ祭 190914 ・170715 #7月のクライム17 ・170503 #ぐるり茨城17 (初日) ・大宝八幡神社 050501 ※外部サイトです |
注釈 | 大宝八幡宮、大宝八幡神社 |
茨城百景 大宝八幡
大宝八幡宮(大宝八幡神社)は、関東鉄道常総線 大宝駅で下車し、100メートルほど先の場所にあります。また、大宝八幡神社の境内一帯は、南北朝時代の大宝城の跡です。
誉田別命(ほんだわけのみこと)、足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)、気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)の3柱を祭神とします。
大宝元年(701)藤原時忠が宇佐八幡宮を勧請し、創建したとされています。その後、源頼義が奥州征伐のときに祭祀田を寄進し、また源頼朝が奥州征伐に際して鎌倉八幡宮を勧請したのが若宮八幡社と伝えられています。
火を持った男が暴れる奇祭! タバンカ祭 / 茨城県下妻市大宝 令和元年09月14日
茨城百景 包含風景 大宝城址
大宝城址 は、平安時代から南北朝時代にかけてあった城跡。西、北、および東方の一部を旧大宝沼にかこまれた台地の自然の地形を利用して増築された城郭です。北側に土塁、空堀が残り、東方も古い時代は沼か湿地であったと思われることから三北断崖に面した要塞の地でした。
興国02、暦応04年(1341)11月、春日中将顕国(あきくに)が興良親王を奉じて小田城よりここに移ってから、東国における南朝方の拠点となりました。その後、北朝側の猛攻をうけて苦戦を続け、食糧不足と城内不和のため、興国04、康永02年(1343)11月12日落城。城主下妻政泰(まさやす)は討死しました。国指定文化財。
茨城百景 包含風景 関城址
関城 はかつて南北朝対立争乱の時代、小田城などとともに常陸国内宮方、南方の拠点として知られる史跡(国史跡)です。南北朝時代の城主関宗祐(むねすけ)は、宗家小山氏とともに南朝方に属しました。
興国02年(1341)、北畠親房がこの城に入ると、旧大宝沼を挟んで対面する大宝城とともに、東国における南朝方の拠点となりました。北畠親房は、小田城で書いた『神皇正統記』を、ここ関城で加筆、修補し完成させたと言われています。
関宗祐の墓
1343年には敵将結城直朝(ただとも)が討死するほどの激戦がありました。
その後、関城城主関宗祐親子、大宝城城主下妻政泰ともに討死し、関城は陥落しました。
関城 坑道跡
高師冬(こうのもろふゆ)軍が、関城を攻めるために掘ったという坑道跡らしき遺構が残ります。師冬勢が城の東北部から城に向かって坑道を掘り始めました。これに応じ、城兵も外に向かって掘り進みました。しかし、師冬勢の坑道は地盤が軟弱だったために落盤し、双方とも坑道戦は中止したと言われています。
茨城百景 包含風景 黒子千妙寺
千妙寺(せんみょうじ/天台宗)〔茨城県筑西市黒子 〕は、関東鉄道常総線 黒子駅から北東300mの場所にあります。
天台宗は元亀02年(1571)に織田信長によって比叡山が焼き討ちされていますが、このころは都の叡山は僧侶の腐敗がひどく、中心は関東に移っていたと言われます。
関東天台の大寺院は武蔵仙波(埼玉県)、小野(新利根村)、逢善寺、羽黒(岩瀬町)の月山寺。千妙寺はその要とも言える存在でした。
辻の火渉まつり 辻集落火渉 / 令和02年02月09日 茨城県筑西市辻
茨城百景 包含風景 梶内観音
梶内観音(かじうち)〔茨城県筑西市梶内/旧 明野町〕
〔訪問予定〕
関東鉄道常総線 大宝駅 駅舎
大宝駅 旧駅舎
大宝駅の旧駅舎は、2005年(平成17年)まで使用されていました。
大宝駅 新駅舎
大宝駅の新駅舎は、2005年(平成17年)から運用開始されました。