茨城百景 牛久沼
茨城百景 名称 | 牛久沼 |
読み方 | うしくぬま |
包含風景 | 泊崎,大師堂,岡見城址,小川芋銭の遺蹟,釣場,猟場金龍寺 |
地域 | 茨城県つくば市泊崎 ・・・碑の設置場所 〔龍ヶ崎市、牛久市、つくば市(茎崎町)〕 竜ヶ崎市、牛久町、茎崎村 |
碑の現存 | 現存する |
実際の碑への記載 | 牛久沼 |
説明 | |
関連リンク | 牛久沼八景 |
注釈 | |
200913 江戸崎八景巡りと壮大な茅葺き~ロード牛久市、稲敷市20
180826 #綱火高岡流の旅18 Twitterによる更新 |
茨城百景 牛久沼
牛久沼〔茨城県龍ケ崎市〕は「カッパ伝説」で知られています。牛久市の南西に位置しますが所在は龍ケ崎市。牛久沼は利根川水系の一級河川の沼であり、その水の流れは小貝川へ繋がります。
牛久沼の周囲は25キロあります。深さは深いところでも3メートルと浅く、現在では小規模な漁業のほか、農業用水として利用されています。かつての昭和50年代頃までは「浮田」がありました。昭和23年頃は109ヘクタールの浮田があり、田舟と呼ばれる舟で行き来していました。
また、うなぎの蒲焼を白飯にのせた「鰻丼(うな丼)」は、牛久(牛久沼)が発祥と言われています。
そのむかし、牛久沼には沼を渡す舟(渡し舟)が就航していました。舟の出発を待つ間、うなぎのかば焼きとご飯を食べようとした旅人ですが、舟が出航することになり、かば焼きを丼飯の上に乗せ、あわてて舟に乗り込みました。
出航後、どんぶりを開けてうなぎ飯を食べたところ、うなぎのつゆがご飯にしみて美味しかったことから、「うな丼/鰻丼」が誕生した。と言う話です。
鰻丼発祥の地は、牛久沼だった!? 211114
茨城百景 包含風景 泊崎
牛久沼の北側、半島状に突き出した場所が泊崎です。「とまりざき」と書いて「はっさき」と読みます。高台の先には大師堂があり、牛久沼を一望することができます。
茨城百景 包含風景 大師堂
泊崎の大師堂〔茨城県つくば市泊崎〕は、弘法大師が大同年間(806-810)にこの地を訪れ、座護摩を修めたところに建てられたと伝えられています。
弘法大師にまつわる言い伝えがあり、「弘法の七不思議」として語り継がれています。
○駒の足跡、×木瓜(ぼけ)、○逆松(さかさまつ)、○硯水、×独鈷藤(とっこふじ)、×五葉の杉、×法越(のっこし)。多くが現在は存在しておりません。
茨城百景 包含風景 岡見城址
常磐線牛久駅から東へ3.5キロの高台に、戦国時代の領主岡見氏が築いた岡見城跡がありました。小田原の北条氏と常陸の佐竹氏との戦闘が激しくなる中で、要害堅固な牛久城を築き岡見城から牛久城へ居城を移しました。
江戸崎八景巡りと壮大な茅葺き~ロード牛久市、稲敷市20 200913
茨城百景 包含風景 小川芋銭の遺蹟
常磐線牛久駅の南3キロの高台が牛久城跡です。戦国時代の領主、岡見氏が築きました。天正18年(1590)、岡見氏滅亡後、新田義貞の子孫由良国繁が入城しましたが、元和07年(1621)、嫡子貞繁の相続のときに除封となり廃城となりました。
その牛久城跡の西500メートルのところに日本画壇の巨匠、小川芋銭(おがわうせん)の最晩年の居住雲魚亭(うんぎょてい)〔茨城県牛久市城中町〕があります。昭和12年09月芋銭婦人と芋銭長男により新地された、画質兼居室です。昭和63年に芋銭三男の遺志により、小川芋銭記念館として牛久市に寄贈されました。
雲魚亭の近くに「河童の碑(カッパの碑)」があります。小川芋銭没後の昭和27年(1952)に、有志により建立されました。
茨城百景 包含風景 釣場
牛久沼には多くの種類の魚が生息しており、今も昔も釣り人たちを楽しませてくれます。
鮭、ウナギ、などもかつては海から遡上してきたようですが、現在は水門などができたため、激減しています。一般的には、鮎、鯉、マブナ、ナマズ、等、むかしから牛久沼に生息する魚が釣れます。ソウギョ、レンギョ、ブラックバス等、外部から持ち込まれた魚も多いようです。
茨城百景 包含風景 猟場金龍寺
常磐線佐貫駅 龍ケ崎市 を北へ1キロ。旧水戸街道若柴宿の一角に、金龍寺(金竜寺/曹洞宗)〔茨城県龍ケ崎市若柴町〕があります。新田氏歴代の菩提寺で、新田義貞以下、新田氏累代の墓が並びます。