077 龍ケ崎観音

茨城百景 龍ケ崎観音

茨城百景_龍ケ崎観音

茨城百景_龍ケ崎観音

 

茨城百景 名称 龍ケ崎観音 ※大文字の「ケ」を採用
読み方 りゅうがさきかんのん
包含風景 龍泉寺,龍ケ峯,古城址
地域 茨城県龍ヶ崎市 / 竜ヶ崎市
碑の現存 現存する
実際の碑への記載 龍ヶ崎観音 ※小文字の「ヶ」を採用
説明
関連リンク
注釈 「りゅうがさき」は時代背景や用途により、いくつかの漢字の表現のブレがある。市町村の龍ケ崎市は、「龍」「ケ(大文字)」を採用している。
ブレの事例)龍ケ崎、龍ヶ崎、竜ケ崎、竜ヶ崎
※竜ケ崎観音、竜ヶ崎観音ではない。
180729 #茨城の夏まつりの旅1807
170723 #
170617 #ロード潮来17
050727 龍ヶ崎祇園祭 撞舞

 

茨城百景 龍ケ崎観音

茨城百景 龍ケ崎観音 竜泉寺

茨城百景 龍ケ崎観音 竜泉寺

龍ケ崎市は歴史が古く、鎌倉時代、源頼朝の家臣下河辺政義の子孫が龍ヶ崎氏を称して龍ヶ崎城を築きました。結城合戦(1441)で龍ヶ崎氏が滅ぶと、江戸崎の土岐氏の勢力下に置かれました。江戸時代は仙台藩伊達氏の飛地藩領とされ、陣屋が設けられ、街の中心市街が整備されました。

胤倫夫人の出産に関わる龍ケ崎観音の建立や、死後の胤倫自身の墓が設置される大統寺など胤倫と龍ケ崎の深い関わり合いのある龍ケ崎です。

茨城百景 包含風景 龍泉寺

茨城百景 包括風景 龍ケ崎観音 竜泉寺

茨城百景 包含風景 龍ケ崎観音 竜泉寺

竜泉寺〔茨城県龍ケ崎市下町〕は、関東鉄道竜ヶ崎線 竜ヶ崎駅から東へ1キロのところにある、天台宗のお寺。
龍ケ崎城城主土岐胤倫(たねとも)の婦人が難産に際し、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)を迎えて寺を建立しました。無事に男子を出産したという言い伝えにより、今も「安産・子育て観音」として信仰されています。

天正年間(1573-92)に土岐胤倫が創建しましたが、後に衰退。寛永年中(1624-44)上野寛永寺の天海僧正が再興しました。よって、竜泉寺の開基は胤倫、開山は天海とされています。

 

大統寺(曹洞宗)

土岐胤倫(とき たねとも)の墓

土岐胤倫(とき たねとも)の墓

土岐胤倫が天正13年(1585)に創建した寺。胤倫自身の墓もあります。

 

茨城百景 包含風景 龍ケ峯

茨城百景 包括風景 龍ヶ峯

茨城百景 包含風景 龍ヶ峯

「古城(龍ケ崎城)の地の東端」を「龍ヶ峯」と読んでいました。

 

茨城百景 包含風景 古城址

茨城百景 包括風景 古城址<br>現在の県立龍ケ崎第二高校(龍ケ崎城址)から龍ケ崎市街地を望む。

茨城百景 包含風景 古城址
現在の県立龍ケ崎第二高校(龍ケ崎城址)から龍ケ崎市街地を望む。

古城址とは、白幡台に館を構えた龍ケ崎城跡のこと。竜ヶ崎駅から東に600m、龍ケ崎第二高校(旧 県立龍ケ崎実科高等女学校)の場所。

茨城県立龍ケ崎第二高等学校

茨城県立龍ケ崎第二高等学校

永禄11年(1568)、江戸崎に居を構えていた土岐治英は、領地の第二の拠点として鎌倉時代の龍崎氏の出丸跡に城を構え、2男胤倫を配しました。土岐氏の後、芦名氏がここを居城としましたが、慶長07年(1602)佐竹氏の秋田移封に伴い、廃城となりました。

 


撞舞

龍ケ崎の撞舞 (国選択・県指定無形民俗文化財)<br>数年前より二人舞男体制で、撞舞の曲芸を披露しています。

龍ケ崎の撞舞 (国選択・県指定無形民俗文化財)
数年前より二人舞男体制で、撞舞の曲芸を披露しています。

龍ケ崎の撞舞(つくまい)は、毎年07月27日に、八坂神社祇園祭の最終日に行われる民俗芸能です。当日の夕方、根町(ねまち)の撞舞通りに御仮屋が設置され、高さ15mほどの撞柱をたてて舞が披露されます。

撞舞 (国選択・県指定無形民俗文化財)

撞舞 (国選択・県指定無形民俗文化財)

舞男と称する演じ手は、雨蛙の姿で柱にのぼり、円座の上に立ち、東西南北四方に矢を放ち、四方祓いをします。お囃子に合わせ、曲芸を披露。舞が終わると、斜めに張った綱を滑り降りてきます。

以前は舞男は一人だけでしたが、数年前から舞男は二人体制で舞を披露しています。

まいんコロッケ

龍ケ崎のまいんコロッケ のぼり旗

龍ケ崎のまいんコロッケ のぼり旗

龍ケ崎の町おこしのために考案されたコロッケです。2000年前半に、龍ケ崎商工会により考案されました。

まいんコロッケ

まいんコロッケ

2005年07月当時、ワタクシ幸甚が吉田部長にインタビューしています。

幸甚(旅人):まいんコロッケの“まいん”ってどういう意味なんですか?

吉田部長 : まいんコロッケは龍ヶ崎市のまちおこしで使われている食材です。もともとまちおこしを行なう時に、何か作ろうと言うことになりました。その時に作られたのがコロッケで、現在の商工会議所がある「地域活力センターまいん」にて作ったので、まいんコロッケと名づけました。ちなみに、“まいん”には“main”の意味があり、“私の(私達の)”の意味が込められています。


まいんコロッケと吉田部長

まいんコロッケと吉田部長