067 高須崎の一本松

茨城百景 高須崎の一本松

茨城百景_高須崎の一本松

茨城百景_高須崎の一本松

 

茨城百景 名称 高須崎の一本松
読み方 たかすざきのいっぽんまつ
包含風景
地域 茨城県行方市
碑の現存 現存する
実際の碑への記載 高須崎の一本松
説明
関連リンク 高須の一本松再生検討委員会を設置しました。(行方市ホームページ)
注釈
#霞ヶ浦水戸16 160305
#ロード潮来17 170618

 

茨城百景 高須崎の一本松

霞ヶ浦大橋〔茨城県行方市〕の東側、霞ヶ浦ふれあいランド、高須崎公園の南側に開けた敷地があり、そこにこぢんまりとした松の木があります。それはまだ「高須崎の一本松」と呼ぶには幼すぎて、「これがかの有名な”高須崎の一本松”なのかしら??」と思ってしまうほど、小さい松の木です。

高須崎の一本松(2017年06月撮影)

高須崎の一本松《4代目》(2017年06月撮影)

 

室伏勇先生の書籍(バイブル)『茨城百景巡礼』(P174、175)によりますと、ここには本来、「霞ヶ浦の水を勢いよく飲んでいるかのような」大きい老木がありましたが、松くい虫の被害により枯れ死(昭和52年頃)。その後、当時の一本松の実生(みしょう/種子から発芽したばかりの植物)が残っており、跡地に2代目として植樹されました。

しかし、その後、その”2代目”も枯れてしまったようで、2016年(平成28年)03月の段階で”3代目”が植えられました。またしかし、その”3代目”も「マツ材線虫病」を発症してしまいました。

2017年(平成29年)06月の段階で、「高須の一本松再生検討委員会」により「一本ではすぐに枯れてしまう可能性あるため初代の形状に似た松(=”4代目”)を植栽しました」となりました。
この”4代目”が冒頭申し上げた「小さい松の木」です。

「高須の一本松再生検討委員会」による案内板<br>平成29年(2017)03月29日に植栽されました。

「高須の一本松再生検討委員会」による案内板
平成29年(2017)03月29日に”4代目”の松が複数、植栽されました。

 

高須崎の一本松《3代目》(2016年03月撮影)

高須崎の一本松《3代目》(2016年03月撮影)

 

高須崎の一本松《初代》<br>案内板に掲載されている、初代の一本松。昭和50年頃に額賀勝力氏が撮影されたもの。

高須崎の一本松《初代》
案内板に掲載されている、初代の一本松。昭和50年頃に額賀勝力氏が撮影されたもの。

 

初代 高須の一本松 の話

樹齢900年余り、根元周り8メートル、樹高約7メートル、東西、南北約23メートルもあったと記録されている。

この松は、永承06年(1051)源頼義・義家(八幡太郎)父子が陸奥の豪族安部氏の乱の(前九年の役)平定に向かう途中、鹿島神宮に戦勝を祈願し、船で霞ヶ浦を渡った。その時、暴風雨にあい高須崎で止むのを舞っていたが、その時の曾尼の長者が炊き出しの接待をしたといわれている。その折に、義家が唄を詠じたところ不思議にも暴風が止んでその波間に一本の小松が漂っていた、それを義家がとりあげて植えた。
また、水戸藩との関わりも深く、義公が元禄02年(1689)領内巡視の際、高須に立ち寄りこの一本松をめでた。以後、松守をおき明治維新の水戸内紛により取り止めになるまで、年々肥料代をくだされた。
時代が下って、天保05年(1834)に水戸藩主斉昭が水軍訓練を高須崎付近の霞ヶ浦で実施した際にも立ち寄り、矢立ての筆で歌を松の支柱に書かれた。烈公はその後、松の手入れ金として参拾両を下賜された。