茨城百景 五浦

茨城百景 五浦

茨城百景 名称 五浦
読み方 いづら (いずら)
包括風景 岡倉天心の遺蹟,唐帰山,長松寺,大津漁港
地域 茨城県北茨城市
碑の現存 現存する
実際の碑への記載 五浦
説明
関連リンク 六角堂と二ツ島 北茨城の旅 050811
注釈

 

五浦

常磐線 大津港駅から東へ道なりで直進すること3キロ。天心記念五浦美術館を左折すると五浦海岸に着きます。

五浦は小五浦、大五浦、椿磯、中磯、端磯と五つの入り組んだ湾があることから、「いづら」と呼ばれてきました。五浦岬公園の、高さ50メートルもある断崖絶壁からは、赤い「六角堂」(茨城大学五浦美術文化研究所)が見えます。

五浦御崎公園から望む、六角堂(2005年08月撮影)<br>眼下に見えるのは、五浦海岸の初代六角堂。

五浦御崎公園から望む、六角堂(2005年08月撮影)
眼下に見えるのは、五浦海岸の初代六角堂。

旧天心邸(現 茨城大学五浦美術文化研究所)にある六角堂(観瀾亭)は岡倉天心先生が設計。天心先生は波に永遠性と絶え間ない変化を同時に認め、宇宙の本質と考えていました。六角堂内で瞑想にふけたり、釣りをしたりしました。2011年03月11日に発生した東日本大震災で、六角堂は津波に流されましたが、茨城大学による「天心・六角堂復興プロジェクト」により六角堂を再現。現在に至ります。(150506)

岡倉天心は明治39年、東京谷中にあった日本美術院研究所を五浦に移転させ、日本美術の革新に乗り出しました。日本美術の近代化と指導、日本の古代以来の文化財の保存修理などに当たりました。

日本美術院研究所(再現)<br>五浦岬公園敷地内に、映画ロケセットにて再現させました。

日本美術院研究所(再現)
五浦岬公園敷地内に、映画ロケセットにて再現。

美術院には横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山の四家族も移住。苦闘ののちに、近代美術史に残る仕事をしました。

 

岡倉天心の遺蹟

茨城百景 包括風景 岡倉天心の遺蹟日本美術院の主催者岡倉天心の遺骨が埋葬されています。

茨城百景 包括風景 岡倉天心の遺蹟
日本美術院の主催者岡倉天心の遺骨が埋葬されています。

天心先生の遺骨は、東京の染井霊園(東京都豊島区駒込)に埋葬されています。

天心先生の辞世とされる「我逝かば花な手向けぞ濱千鳥 呼びかふ聲(こえ)を印にて 落葉に深く埋めてよ十二萬年名月の夜 弔ひ來ん人を松の影」の遺志に沿い、天心先生没後の大正02年(1913)東京染井霊苑から分骨し、近代日本美術黎明の地五浦に埋葬されました。

 

唐帰山

唐帰山(佐波波地祇神社)からの眺め茨城百景の包括風景に制定されています。

唐帰山(佐波波地祇神社)からの眺め
茨城百景の包括風景に制定されています。

唐帰山(からかいさん)〔茨城県北茨城市大津町〕は、佐波波地祇神社(さわわちぎじんじゃ)が在することでも知られています。

「5年に一度」の「御船祭(常陸大津の御船祭)」は佐波波地祇神社の浜降り神事として伝わり、海の幸を船体一面に描いた神船に神輿を乗せ、大津の町を曳いていきます。

令和けんぽくの旅19(初日)~常陸大津の御船祭 190502

長松寺

長松寺 本堂〔茨城県北茨城市大津町〕境内までは自転車で上ってくることができます。

長松寺 本堂〔茨城県北茨城市大津町〕
境内までは自転車で上ってくることができます。

長松寺 境内から大津漁港を望む大津の漁港を一望できる、茨城百景 包括風景。

長松寺 境内から大津漁港を望む
大津の漁港を一望できる、茨城百景 包括風景。

長松寺の梵鐘〔茨城県北茨城市大津町〕

長松寺の梵鐘〔茨城県北茨城市大津町〕

 

大津漁港

大津漁港漁船の数がたいへん多い。

大津漁港 〔茨城県北茨城市関南町〕
漁船の数がたいへん多い。

大津漁港は年間数万トンの漁獲量を誇る漁港です。

幕末の文政07年(1828)、イギリスの捕鯨船員12人が大津港に上陸してきました。水戸藩からは幕府を含め100人近くの兵が出向き、水戸藩の会沢正志、幕府の天文学者高橋作左衛門景保がかけつけました。イギリス船員には食糧を与えて返します。「異人」が上陸したことを受け、徳川斉昭藩主は海防の重要性を認識したとも言われています。

のちの、「助川海防城」築城(天保07年/1836)へと繋がります。

008 助川城址と海と山の公園巡り

 

 

 

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