伊奈氏屋敷跡~伊奈氏の屋敷跡が埼玉の伊奈町にあった
伊奈忠次――。
茨城県から見ると、伊奈忠次とは『備前堀』を作った人物であり、「備前堀」〔茨城県水戸市〕の伊奈忠次の像が目に浮かびます。
伊奈忠次は天文19年(1550)、小島城〔現在の愛知県西尾市小島町〕主・伊奈忠家の子として生まれました。父忠家は永禄06年(1563)、三河一向一揆に加わり、徳川家康に敵対することで城を追われました。
天正10年(1582)の本能寺の変で、忠次は小栗大六の与力となり、徳川家康に貢献。帰参しました。
家康が関東入国後、忠次は代官頭として武蔵国足立郡小室1万3千石(1万石とも)を与えられ、小室郷〔現在の埼玉県北足立郡伊奈町小室〕に陣屋を構えました。
今回は、その「伊奈氏屋敷跡」に訪問します。
伊奈忠次の孫、忠勝の死で領地が没収される
伊奈忠次が慶長15年(1610)に61歳で死去すると、子忠政が継承します。
しかし、忠政が34歳で亡くなると、忠政の子忠勝がわずか8歳で継承します。
その忠勝も翌年9歳で亡くなってしまい、(一時的に)領地は没収されました。
→伊奈忠勝のお墓、願成寺
伊奈氏の領地はその後、忠次時代の功績が認められ、忠勝の弟忠隆を名跡とし、小室郷1180万石余が与えられ、伊奈熊蔵家は旗本として再出発しました。
明治維新後、陣屋敷地は払い下げられ、民有地となり、各所の門も取り払われました。
陣屋内の区分は明らかでは無いものの、当時を偲ばせる土塁や掘が良好な状態で保存されています。
アクセス:伊奈氏屋敷跡
名称:伊奈氏屋敷跡
住所:埼玉県北足立郡伊奈町小室217−5
訪問履歴 / 今回の軌跡
「伊奈氏屋敷跡」は一部の私有地を除き、公道、公的な敷地となっており、アクセスが可能です。
※私有地、民有地の立ち入りは禁止なので、注意をする必要があります
二の丸 跡
「二の丸」跡。
建物など遺構は一切残りませんが、盛り上がった敷地が当時を偲ばせます。
また、公道とは別に、「散策路」が整備され、ある程度自由に敷地周辺を歩けるようになっています。
頭殿権現社(ずどのごんげんしゃ)
頭殿権現社として長禄02年(1458)頃に、太田道灌(おおたどうかん)が勧請したといわれ、天正19年(1591)に、忠次が陣屋に入った後に、陣屋の守護神としました。
仮設トイレがある
仮設トイレが設置してあります。
手洗いの蛇口が無かったので、だれかの悪戯かと思いました。偶然にも、一歩前に出たら足下のフットペダルを踏んでしまい、水が出ました。
頭殿権現社のところにあるトイレの、洗面台の蛇口がなくて、ガーン😱となったが、フットペダル式の洗面台だった。
#伊奈屋敷跡の旅21 #伊奈町 pic.twitter.com/9Sa11WIH7k
— 旅人幸甚 @新治郡千代田村 (@brand_kas) February 28, 2021
「伊奈氏屋敷跡 散策路マップ」
伊奈氏屋敷跡の散策路の各地にポストがあり、その中にA3カラーで作られた「伊奈氏屋敷跡 散策路マップ」が提供されています。
お手製で作られたA3サイズのマップ。伊奈氏(伊奈忠次)についての紹介や、みどころなどを丁寧に紹介してあります。訪問の際は、なるべく早く入手しておきたいです。
障子堀 跡(裏門)
敵兵の進行を阻むための「障子堀」。
後年、中心的機能は赤山に移る
寛永06年(1629)に、三代伊奈忠治が現在の川口市赤山に陣屋を移したため、中心的機能は赤山に移りました。
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〔 この項おしまい 〕
この「伊奈氏屋敷跡 散策路マップ」は多分、地元の方が手作りで準備されているのだろうけど、おもてなしの心を感じました!