津波流出前の六角堂
今年令和03年(2021)は、東日本大震災が発生した年(2011年)から10年が経過します。東日本大震災で被災された方、お亡くなりになられた方にお見舞い、お悔やみ申し上げます。
東日本大震災 被災/復興のシンボル 六角堂
東日本大震災の被災(復興)したシンボル(象徴)のひとつに、茨城県北茨城市の六角堂が上げられます。
明治39年に岡倉天心が日本美術院の本拠をここに移しました。
横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らと捜索活動を行いました。
海に突き出た断崖上に見える赤い建物が、天心が建てた六角堂であり、彼はここで太平洋を眺め、波の音を聞きながら、思索にふけたと言われています。
アクセス:六角堂
名称:六角堂
住所:茨城県北茨城市大津町五浦727−2
※便宜上、最寄り駅を常磐線JR大津港駅としております
明治38年6月、天心の設計により建築されたもので、天心は好んでここにこもり、断崖の裾を洗う太平洋の波音を聞きながら、思索にふけり、あるいは和漢の書をひもといた。インドの詩人タゴール(ノーベル文学賞受賞者)は、大正5年日本を訪れたとき、ここに立ち寄り亡友を偲んだ。
亭子建築の思想
中国四川の杜甫旧居の草堂や六角東屋のように、景色を眺め瞑想にふけるための亭子建築の構造が取り入れられています。仏道の思想
屋根の上の宝珠と赤い色彩が取り入れられています。茶室の思想
床の間があり、炉で湯を沸かし茶をたしなむことができます。雪見灯籠
周囲の風景を庭園に見立てていることがわかります。
岡倉天心
西洋主義でも、伝統主義でもない、明治にふさわしい新しい時代の日本画の創造に大きく貢献した人物です。芸術と生活を融合するアジア的な文化の象徴として六角堂を建設。五浦に日本美術院を移して画家たちを育て、近代日本画を打ち立てました。
日本美術界の祖、 #岡倉天心 先生の墓。
この地から分骨するかたちで、茨城県北茨城市大津町の五浦にもうひとつ、 岡倉天心先生の墓があります。#染井霊園の旅19 pic.twitter.com/49OgcmIeGH
— 旅人幸甚 @新治郡千代田村 (@brand_kas) June 20, 2019
六角堂 震災による被害と復興
10年前のあの日、東日本大震災の津波により、六角堂は土台のみを残し消失してしまいました。
後の調査で、海中より「瓦」を見つけることはできましたが、それ以外のものを発見することはできませんでした。
流出前の六角堂 2005
東日本大震災(2011)で被災するよりも6年前の2005年。
五浦に訪問し、被災し流出する前の六角堂を撮影していました。
以下の写真はすべて、津波流出前の初代 六角堂の写真となります。
2005年(平成17年)の撮影当時、まさか津波で六角堂がなくなるとは思ってもいませんでした。自分なりに、初代六角堂の写真を押さえていたのは貴重な資料であろうと自負しています。
茨城百景 014 五浦
五浦は、茨城百景のひとつです。
おまけ:常磐線 JR大津港駅前にある 六角堂
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… #北茨城市ID
〔 この項おしまい 〕
「雪見灯籠」って、東日本大震災の前から存在していたかな~? 「雪見灯籠」が存在した記憶が無いんだよな~??