八掛堂じゃなくて八卦堂~東日本大震災で被災し修復された弘道館記碑
「水戸の梅まつり」。
水戸の梅まつりはメイン会場を、水戸偕楽園〔茨城県水戸市常磐町〕と弘道館〔茨城県水戸市三の丸〕としています。
梅まつりに訪れた方の多くは、必ず偕楽園へは訪問すると思います。
また、弘道館にも訪れる方は多いと思います。
弘道館 正庁(学校御殿と呼ばれる、メインの建物)へ入館して終わり、ではありません。その裏手の敷地(一応こちら側も弘道館の敷地です)、無料でアクセスできる場所に「八卦堂」があります。
八卦堂 (はっけどう)
この八角の堂は、各面の上欄に八卦(易)の算木取付けられているので八卦堂といいます。現在の堂は創建時のものが、昭和20年08月の戦災で焼失したため、昭和28年に再建したもので、堂の中には弘道館記碑が治められています。
この碑文は徳川斉昭(烈公)の選文による書で、藩校である弘道館の教育の基本を示したものです。
碑は弘道館の建設と同時に建てられ、高さ3.1メートル、幅1.9メートル、厚さ0.55メートルで常陸太田産の寒水石を用いています。
八卦堂の覆堂
「弘道館記」が刻まれた寒水石は風雨による浸食を受けやすいため、覆堂が設けられました。
八卦の算木
八角面のそれぞれの軒下部分に万物変化の相を示す八卦易の算木(さんぎ)を配してあります。
万物変化の相を示す。
乾(けん)、兌(だ)、離(り)、震(しん)、巽(そん)、坎(かん)、艮(ごん)、坤(こん)
弘道館記碑
八卦堂内部にある、「弘道館記碑」。
こちらが本来、重要とされる部分です。
従来、八卦堂内部に設置されている「弘道館記碑」は、八卦堂の隙間からのぞき込むようにして拝見するのが従来のスタイルでした。
ところが、平成31年(2019)03月に八卦堂に訪問すると、「八卦堂特別公開」と称して扉が開放されています。
十数年、何度かこの八卦堂には訪問したことがありましたが、扉が開いている状態で、記碑全体を見ることができたのは、このときが初めてです。
八卦堂/弘道館記碑 の傷跡の歴史
- 天保12年(1841)の弘道館の開館にあわせ、八卦堂は建てられました。
- 昭和20年の空襲により焼失。弘道館記碑は、焼夷弾の傷跡を残しながらも、八卦堂の保護により助かります。
- その後、昭和28年に八卦堂は復元されました。
おそらく、この部分まではずーっと語り継がれてきており、いろんな書面や観光案内ガイドにて確認できる内容です。
東日本大震災で記碑がダメージを受けていた
平成23年(2011)03月11日の東日本大震災において、碑の一部が崩落します。
碑自体に多数の亀裂が生じ、碑は約3.3メートルの高さに対し、約4cmほど前傾しました。
倒壊した石塊は大きいもの(50kgから200kgまで)で12個。
過去の被災で修復した部分にも、空隙(ウキ)が確認でき、樹脂を注入。
東日本大震災では、八卦堂には主たる被害はありませんでした。
東日本大震災では、弘道館記碑に被害が生じ、修復されたのです。
令和03年の水戸の梅まつり、および、弘道館記碑の公開
今年、令和03年の『水戸の梅まつり』の正式開催が現時点(01月31日)で未定。
また、八卦堂が「特別公開」されるのかも未定です。( → 令和03年 コロナ禍における「水戸の梅まつり」はやるのか、やらないのか )〔 #水戸の梅まつりの挑戦21 〕
もし、八卦堂に訪問することができれば、再度改めて見直してみたいと思います。
アクセス:弘道館 (水戸の梅まつり 会場)
名称:弘道館
住所:茨城県水戸市三の丸
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… #水戸市ID
〔 この項おしまい 〕
「八卦堂(はっけどう)」であり、「八掛堂」ではありません。