本山劇場 基本調査 -日立鉱山-
令和02年度の茨城県の紅葉を確認しに行った登山旅、 茨城紅葉登山旅20 。3日目。
日立鉱山の山を自転車でクライムしていきます。
目的は、日立鉱山の労働者たちが楽しむ場であった「本山劇場」の場所を確認すること。
過去に何度か「本山(もとやま)」地区にほ訪問しており、「本山の一本杉」や、「本山劇場の入口の階段」などは確認しています。
日立鉱山のあった「本山地区」
かつて「日立鉱山」(前身は「赤澤鉱山」)の鉱石採掘場があったエリア。
日立鉱山で働く者たちが住む生活ゾーンでもあり、学校や病院などもありました。最盛期には1万人ほどの労働者家族が暮らしていました。住居は密集するほど建ち並んでいましたが、閉山後、多くの労働者、住民は山を下りました。
現在は、第一縦坑を残し、日鉱記念館〔茨城県日立市宮田町〕が建てられ、日立鉱山、日立製作所の歴史を紹介しています。
アクセス / 本山地区(日鉱記念館)
- 名称:日鉱記念館 ※便宜上、日鉱記念館宛としています。
- 住所:茨城県日立市宮田町
本山小学校 → あかさわ山荘
本山小学校は、本山地区にあった小学校。
生徒は、ほぼ全員が従業員の子弟だったので、学校の運営には会社が全面的に支援した。写真のL字型の2階建ての校舎の裏手にも、斜面に沿って音楽室などの教室があって、山の中にもかかわらず、充実した教育環境が整備されていた。教師は、山の中に赴任してきてくれたということで日立鉱山の職員待遇で迎えられた。1979(昭和54年)閉校。
あかさわ山荘(跡)
廃校後、建物は「あかさわ山荘」として利用されました。校舎は2020年現在撤去されており、敷地のみが残ります。
アクセス / バス停 あかさわ山荘
本山劇場 跡 を空から確認する
本山劇場があったのは、本山の一本杉の手前。
日立市街地方面から上ってくると、右手に4件ほど住居が建ち並びます。
この住居の脇に、本山劇場に向かうための階段があります。
この階段にアクセスするためには、個人所有とされる土地を通過する必要があるため、今まで一度も足を踏み入れたことはありません。。
日鉱記念館でこの地区の、本山劇場があった時代の地図を発見します。
前述の住宅の写真と、地図の向きは180°逆となっていますので、ご注意を。
「本山劇場」は、道路(県道36号)から100~200メートルほど山の中に入った場所のようです。
在りし日の「本山劇場」。
写真だけ見ると、開けた土地に劇場は建てられていたようですが、本山劇場は使用されなくなった跡、すぐに撤去されたそうです。人が使用されなくなった土地は、自然に還る。。
本山地区にあった、日立鉱山〔1905-1981〕 労働者のための劇場。
共楽館の完成4年前に本山劇場が建てられている。収容人員は共楽館よりわずかに小さいが、内部は3階の本格的な芝居劇場であった。
共楽館の催し物は、すべて本山劇場でも舞台に乗せられた。芝居や映画のほか、小学校の学芸会、素人劇団の演劇、全国優勝した日立鉱山のブラスバンドの演奏、山中友子取立式、労働組合の大会など、まさに鉱山社会と密着した存在だった。
そこで、ちょっと飛ばしてみました。
写真右手下が県道36号。道路上方向か日立市街地方面。下方向が日鉱記念館や入四間方面になります。写真上部方面に登っていくと、「本山劇場」があった場所となります。
本山劇場は解体され、その後土地利用されなかったため、自然に還っています。周囲の青々とした木々と、枯れ木(落葉樹?)とのコントラストが確認できますが、それがそのまま「本山劇場」の土地と、元々の自然?なのでしょうか?
日鉱記念館で流れているビデオでの「本山」の紹介
日鉱記念館では、「日立鉱山」や「日立鉱山でのくらし」を紹介した2種のビデオが常時流されています。たいへんよくできているビデオなので、是非訪問して観ていただきたいです。
日鉱記念館の担当の方には、「このビデオが公式サイトで観られるようにして欲しい」とお願いしました。
本山地区には、鉱山で働く人々のための住宅が建ち並んでいました。
ここは、鉱山の採鉱所や選鉱所へとつづく「鉱山町」でした。
本山には、1万人以上の人々が暮らしていました。
供給所と呼ばれる販売所で、人々は日用品を安く購入していました。
当時の最新設備を備えた病院。
中学校、小学校には、2000人の子供たちが通っていました。
Powered by Studio Ibaraki Daisuki co.Ltd,
… #日立市ID
茨城紅葉登山旅20 3日目 ~日立鉱山電気鉄道クライムと玉簾の滝 201123
令和けんぽくの旅19(3日目)~日立風流物、日立鉱山の歴史クライム、諏訪の梅林と水穴_190504
茨城百景「007 日立の大煙突」を加筆更新しました! 200229 ※外部リンクです