田中愿蔵の生涯の旅 / 茨城県常陸太田市、他
天狗党の幹部であった、田中源蔵(たなかげんぞう)の生涯を追ってみました。
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田中愿蔵(たなかげんぞう/天保15年(1844)~元治元年)は、水戸藩天狗党の幹部です。
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田中愿蔵は、現在の茨城県常陸太田市(久慈郡東連地村)で生まれました。
2) 3)
藩校弘道館、江戸の昌平坂学問所で学びました。
4)
元治元年、藤田小四郎が尊皇攘夷を唱え、筑波山で挙兵。
5)
愿蔵らは、筑波山の麓にある普門寺にて挙兵します。
6)
田中隊は資金調達のため、栃木宿や真鍋宿で略奪、放火。
7)
江戸幕府の追討軍が派遣されると、田中隊は那珂湊周辺で戦います。
しかし、天狗党側は破れ、田中隊は北へ逃走します。
8)★
赤沢銅山(のちの日立鉱山)まで逃げ、食料の供給を要請するも、銅山側は拒否。
愿蔵は銅山の施設を破壊した上に、放火しました。
9)
愿蔵はさらに北上し、八溝山、八溝峰神社に籠ります。
田中隊は疲弊し解散。愿蔵は棚倉側に下ります。
10)
山を下りた田中隊のほとんどは捕らわれ、処刑されました。
11) 12)
その場を逃れた愿蔵は捕縛され、塙代官所に送られ、久慈川の河原で斬首されました。
13)
愿蔵の遺体は塙の安楽寺に葬られました。
みちのくの山路に骨は朽ちぬとも 猶も護らむ九重の里
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