日立鉱山電気鉄道の今昔
かつて、日立鉱山 大雄院の製錬所から助川駅(現在のJR日立駅)まで鉱山電車が走っていました。その電車を『日立鉱山電気鉄道』(日立鉱山専用電気鉄道)と言いました。
他の地域から買い入れた鉱物(買鉱)や資材などを運ぶため、1906年に開通しました。1910年代には、電気鉄道は1日4列車、昼夜を問わず走った時代もありました。
鉱石輸送のために開設されたものでしたが、のちに鉱山の従業員や関係者も無償で乗せるようになりました。
昔の写真と現在の風景を見比べることで、日立鉱山電気鉄道の歴史を振り返ってみます。
01.助川駅(日立駅)
日立鉱山電気鉄道の基点駅、助川駅。
助川駅(助川停留所)は、日立市のローカルケーブルTV局である、J-Wayの敷地(ロケーション)当たりにあったようです。J-Wayの主要株主のひとつに「日立製作所」が含まれていることからも、関連性を感じることができます。
この「日立シビックセンター」を中心とした街づくりは、昭和63年に着工されました。界隈を大きく作り替えたため、当時の「日立鉱山電気鉄道」を残すものはないと思われます。
02.芝内停留所
バス停の名称や、背景の山の稜線からも比較的当時の様子を残していることが分かります。
線路の位置や道路幅などは、この芝内に限らず、日立鉱山電気鉄道の廃線後、土地を吸収して道路幅が拡張されていたりするため、今と昔を明確に切り分けることは難しくなっています。
03.大雄院 / 大雄院製錬所
現在のJX日鉱日石金属がある、バス停「大雄院」。
道路県道36号をはさんだ反対側に駐車場があります。この広い駐車場の場所に、日立鉱山電気鉄道の車両基地(車両置き場)があったものと思われます。
近くには、当時の構造物をそのまま残したバス待合所が今でも残っています。
大雄院製錬所、つまり、鉱石から銅を抽出する施設、設備があります。
塩酸を使って抽出する際、有毒ガスが発生します。その有毒ガスにより一次、この日立の山々は荒廃しました。
煙突を高くして有毒な煙を空高く放ち、分散させることで有毒なガスを希釈させた、というのが『日立の大煙突』であることは言うまでもありません。
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